
【連載小説】稟議は匝る 5 札幌 2006年12月11日
(札幌2006年12月11日)
年末も近づいてきたある日の、20時40分。
静まり返った行内に、測ったように電話のベルが響いた。外線電話、おそらく藤沢だ。
「はい山本です」計算機をたたいていたのをやめ、山本は受話器を取った。
さすが山本さん、山本さんぐらいになると社名を名乗る必要もないのですね。いえいえ、そんな恐れ多い、藤沢さんの電話だとすぐにわかったんです。女房の声は忘れても、藤沢さんの声は忘れませんよ。などと、いつもの掛け合いをしながら、藤沢が真剣な声になる。
「山本さん、明日、1時間ほどお時間頂戴できませんでしょうか」
山本は引き出しから手帳を出して日程を確認した。
「すみません、明日は、うちの上席が出張に出てまして、」
遮るさえぎるように藤沢が切り出す。
「むしろ良かったです。実は内々に相談したいことがありまして、こちらに用があるのに大変恐縮ですが、北和銀行の札幌支店に来ていただけませんか、明日は朝から終日そちらに里帰りをしていますので」
緊張した声に山本は一瞬にして血の気が引いた気がした。
ついに、出来たのだ、再建計画が。さとられないようにわざと明るい声で返した。
「いいですよ。ちょうど上席が2人ともいないので、サボって映画でも観ようと思っていたところでしたから」
またまた御冗談を、とか、里帰りとは、嫁ぎ先に嫌われたものですね、などと一通りの軽口を交換しながら、明日の時間を十時とした。
札幌市は碁盤の目のような綺麗に整備された街だ。道路の広さや都市計画の緻密から、本家の京都の街並みより格段に美しい。中央に東西にのびる大通り公園は、雪まつりや、ビアガーデンと利用される以外は、ビジネスマンや観光客が往来する緑の癒しの空間となっている。
北和銀行は大通公園を挟んで斜め向かい。歩いて2分ぐらいのすぐそばにある。なぜか銀行はおなじエリアに多く集まって店を構えていることが多い。大体の県庁所在地も同様だ。日本銀行の手形交換に向かう経路の関係があるのか、江戸時代の銀座のように、戦後の混乱期に、国から店を開く場所を実質的に制限されていたのかもしれない。
山本は北和銀行札幌支店の裏口に回った。
銀行員は他行を訪問する際、かならず裏口から入る。銀行特有のルールと言ってよい。呼び鈴を鳴らすや否や裏口の扉を女性行員が開けてこちらに声をかけてきた。
「お待ちしておりました。山本様」
おそらく年は三十歳前後か、奇麗で知的な女性が山本の目を見て続ける。
「ご足労いただきまして大変恐縮です。藤沢が会議室でお待ちしておりますので、私が案内いたします」
裏口を入り、長い廊下を歩いてエレベータ前に着く。つかず離れず、一定の距離をとって女子行員は私の前を歩く。銀行のマニュアルだ。銀行の中には現金や手形などといった貴重品はもちろん、各企業の資料や聞かれたくない会議も行われているため、外部の人間には必ず行員が付き添う。あちらこちらに防犯カメラがあるのは当然であるが、人間の目も厳しい。盗聴器はもちろん、1円玉1枚置いてくることもできないぐらい一挙手一投足を監視されている。
そんな中、山本は、あえて軽口をならべる。
藤沢さんにはいつもお世話になっておりまして、に始まり、女房殿より話す時間が長いやら、藤沢さん、私のことをトトロのようだとか言ってませんでしたかなどと短い時間に会話を続け、この女子行員を笑わせようと頑張る。自分でも良く分からないが、他の銀行に行く時はいつもこうだ。自らの緊張をほぐすためなのだろうか。自分でもよくわからない。
トトロのくだりのあたりで会議室前についた。
「そんなことありませんわ。こちらが会議室です。どうぞ」といって女性行員は扉を開いてくれた。まだ笑顔は見ていない。
銀行は相手によって通す部屋が異なる。一般客なら窓口、法人客なら小部屋へ、大口の法人客で社長クラスなら支店長室へなどといった感じだ。
またどんな話をするかによって、椅子も違ってくる。表敬訪問などは革張りのソファ。キチンと資料を検討する場合は、パイプ椅子に長机のある会議室となる。
藤沢は、長机をロの字型に並べた会議室にパイプ椅子を2本用意していた。8~10センチの厚さのドッチファイルが整然と並べられている。おそらく決算書だけではない、数十年分の帳簿一式から資産管理表、従業員の勤務簿まですべての資料が並べられているようだ。
その並べられた資料の多さに驚きを隠せないでいる山本の顔を見ないふりをして藤沢が明るく話し出した。
「すみません、ご足労いただきまして。どうぞこちらにお掛けください」
自分の鞄から計算機と手帳を取り出して、椅子に座り、カバンを足元に置いた。
「すごい量の資料ですね」
「驚かれますよね。白銀水産のすべての資料です。当行が取引を開始した37年前から今までの内部資料一式と、白銀水産のここ20年の帳簿があります。実は、うちの会社の再建計画の初稿が出来まして、明日、うちの実家の札幌支店で正式な会議が行われます。本店からは、本件の担当役員である専務の利根川、審査部長の小野の他、法務部長、コンプラ部長、経営企画部長など、直接償却にかかわる担当ラインがそろいます。そのため形式的ですが、会議室にはすべての資料を並べるのが、うちの、しきたりでして」
あっけにとられて、声も出ない。
「すべてのラインには事前説明を行っていて、明日は儀式のようなものなのですが、一応、その会議を経て、他の金融機関の皆様に再建計画を提示させていただく運びとしております。そんなところで、山本さんには、ぜひその前に再建計画をお目通しいただき、ご意見いただければと思いまして」
うちでは真似できない。この気合の入れ方はもとより、ざっくばらんの域を超えている。
他人様のお家事情はよく分からない。しかし、この男は明らかに将来の役員候補に違いない。自分の会社を自由自在に操っている。
暖房の効いた部屋のせいか、はたまた緊張感からか、冬だというのに山本は、自分の額から汗が落ちるのが分かった。
「大事な会議資料を先に拝見して大丈夫ですか」
なぜか山本の方が小声になってしまうが、これも器の違いかと考える。が、間髪入れず、いつもの明るい早口の藤沢の声が続く。
「そりゃ当然ですよ。この計画は、山本さんの意見を各所に入れていますし、つねにご意見を頂戴しながら、作成したものです。出向の身で、相談する者もおらず、山本さんにいろいろ助けていただきました。細部の積算や、財務デューデリといった実質的な資産評価によって、多少の数字の増減はあるかと存じますが、方向性は間違っていないと自負しておりますよ」
どこかいたずらめいてさえいる藤沢に、山本が参ったと天井を仰いだその時、会議室をノックする音がした。先ほどの女性行員がコーヒーを運んできたのだ。その奇麗な女性行員はコーヒーを置く時に、山本の耳元でわざと藤沢にも聞こえる声でいった。
「コーヒー熱めに入れたので気を付けてください大トトロさん。」
そして、微笑みながら素早く会議室を出ていく。
「ちょっと待ってください。いつの間にうちのマドンナに、ちょっかいを出しているんですか」
藤沢が、かなり素に近い状態で怒っている。
「いえ、先ほど、裏口からこちらの会議室まで案内していただいた時に、ちょっと会話のつかみで」
藤沢が、笑っているのか本当に怒っているのか分からないぐらいの調子で続けた。
「本当に困りますよ。山本さん、信用して来ていただいているのですから」
12時30分。しんしんと降る雪。
大通り公園のベンチに座って、山本は缶コーヒーを飲んでいた。気持ちが高ぶっているせいか、外の寒さが気にならない。缶コーヒーから湯気が出ているのを見て、今が冬だと改めて気が付いた有様だ。1時間1本勝負と言いながら、結局、2時間半も居たのか。ただただ、藤沢の自信にあふれる表情しか思い出さない。
観光客の子だろうか、小さな子供らが、雪だ、雪だと、はしゃぎながら走り回っている公園の端のベンチで、山本は、何度も深いため息をついた、そして述懐する。
本当に見事な再建計画だ。あの会社を再建するなら、あの方法が最善なんだろう。それは分かるんだけど、うちの審査部に話が通じるのだろうか、と。