【連載小説】稟議は匝る 17-2 東京・日比谷 2007年5月9日 (専務との対決)
扉の中を見渡すと、役員会議室では、すでにみな着席しており、1番奥に岩井専務が座っている。
順に審査部長以下審査の担当ラインはもちろん、法務部長、コンプライアンス部長までも下を向いて座っていた。
今日の会議はあくまで支店と審査部の協議のはず、関係部署の出席は予定にない。
どうしてと、そんな置かれた状況を考える暇もなく、山本が末席に座ると、支店長が稟議の説明を行うため、立ち上がろうとした。その瞬間、岩井専務が口を開く。
「いやいや、支店の説明はいらない。中身は既に目を通したし、各部署の意見も聞いた。本件は却下だ」
否やを言わせぬ強い口調に、山本から、血の気が引いた。あまりの衝撃に声が出ない。
「そもそも、法人融資の部門なんて前近代的だ。接待で人間関係を構築し、決算分析に時間をかけ、低い金利の収益を、たった1社の倒産で消し去る。融資ラインなんて、今の時代、盲腸みたいなものだ」
暴論だ。
山本は素早く周りを見回した。だが誰も声を出さない。札幌支店の面々ですら、黙り込んで発言しようとしない。部長職や支店長職は、内部的には上りのポストだ。退職後に子会社や系列会社にうまくすべりこめるできるか否かは、役員の匙加減。だから、だれも声を出せないのだ。
「盲腸は言い過ぎでしょう、支店長が札幌からお越しなんですよ」
大渕審査副部長が諭すように口を開いた。この会社は、優秀で多くの実績を残し正論を吐く人間は副部長止まりだ。
「言い過ぎかどうかは聞いていない。こんなのバルクで売ってしまえ。わざわざ手間暇かけて債権放棄して企業を立て直す?そんなの自分の金でやれ。パトロンかお前らは。」
噂にたがわぬ高圧的な物言いに、一段と会議室の空気が重くなる。
「それは本件を本当に却下するということですか」
唯一人、大渕副部長が食い下がる。
「却下とか、そんないいものでもない。こんなの検討するのも時間の無駄だ。事業環境の悪化、同業他社との競争激化、多角化の失敗、ふん、できない理由を並べて、これまでの経営の失敗は棚に置き、債権放棄したら会社がたてなおりますなんて、本当に、おめでたいやつらだよな」
悪態をつかれながら、札幌支店の支店長や課長は、やはり黙って下を見ている。
山本も歯をくいしばって耐えていた。
「おまえか、おめでたい担当は。よくもまぁ恥ずかしくもなくこんな稟議書いたよな。いい勉強になっただろ。もう本件はいいから、今後、出張などの無駄な経費を使うな。この会議室の電気代ももったいないよ」
山本に向かって、岩井は読んだと思しき稟議書を放ってきた。
「支店としては、本件に誠意をもって対応してきました。会社に迷惑をかける気はさらさらなく・・・・・・」
さすがに何か発言しないとと思ったのか、札幌支店長がトンチンカンなことをつぶやいている。反論するならしっかり話してほしいと山本は歯噛みする思いで上司の背中を見つめた。そんな札幌支店長など気にも留めずに専務は席に座りなおして、大きくはないが通る声で話し出した。
「法務部長、本再建計画に同意しないことについて、法律上の問題はあるのかね。」
席のすぐ後ろに控える法務スタッフの耳打ちを聞いたのち、法務部長が静かに立ち上がる。
「法律上の問題はありません」
無表情の岩井は続ける。
「コンプライアンス部長、本再建計画に同意しない場合について、コンプラ上、なにか私が知るべきことはあるのか」
知るべきことがあるかとは意味深だが、本件においては、それほど意味はない。おそらく岩井の癖になっている言い方だ。余計なことは言うなという意味に等しい。専務がコンプラ部を嫌っている証左だろう。
「コンプラ部長として特に進言することはありません。然しかるべく。」
コンプライアンス部長は直立して応える。
「審査部としましては、」
審査部長が立ち上がるが、もういいといった仕草で岩井専務が手を振った。
「審査部が、本再建計画の蓋然性、経済合理性を評価している点は既に聞いた。だが本再建計画には同意しない。現在、本支店で進めているバルクセールのリストに追加するように。会議は以上だ」
言い放って、岩井専務が立ち上がり帰ろうとすると、
「お待ちください。」と叫んで山本は起立した。
このままでは、本当に白銀水産の再建がなくなってしまう。
「山本君!」
と支店長の小声の静止も聞こえたが、山本は構わずしゃべりだした。
「専務にそのような権限はありません」
はっきりした山本の声に、会議室にいる十数名の人間が一斉に会議室の末席の山本を見た。岩井専務はハトが豆鉄砲を食らったような顔をしている。
「お前は今、何と言った、」
「専務にそのような権限はありませんと申し上げました。」
「なんだと、一担当の分際で、差し出がましいわ。」
「しかし専務、」
支店長がぐいっと山本の腕を引っ張っているが、かまわず山本は話し続ける
「専務、本稟議の決定権限者は沖田取締役です。」
山本の言葉に岩井は机を叩きながら反駁した。
「そんな訳ないだろ、100億近い債権放棄を平取が決定できる訳がないだろうが!」
今までのシニカルな態度とはうって変わって、岩井は直情的に大声を出す。
その様子に、山本は逆に落ち着きを増していった。
「役員会において、債権放棄及び直接償却について権限移譲がなされております」
権限移譲とは、本来の権限者があらかじめ下位の権限者にその判断を委ねるものだ。
「そんな権限移譲、俺は知らない」
明らかに狼狽した様子で岩井が言う。
「2年前に受けておりますので、専務は当時、役員ではありませんでした」
役員ではありませんでした、とはただ単に山本は事実を述べただけであったが、岩井には、ルート外のあなたは知らなくて当然ですよとの皮肉に聞こえた。逆鱗に触れるとはこのことだろう。岩井は一瞬にして顔色まで変わった。
「担当風情が生意気な、何が権限移譲だ。おれは専務だ、代表権のある経営者だ。札幌支店ではどんな教育をしているんだ」
申し訳ありませんと、支店長は即座に直立して頭を下げ、着席しハンカチで汗を拭いている。
「役員会だが、権限移譲か知らないが、代表役員が右だと言ったら右に決まっているだろ。そんなことも分からないのか」
専務の怒鳴り声は終わらない。
「おっしゃることは理解できます。」
山本は直立のまま、専務の目線をしっかりとらえている。
「理解できるんだったら、黙って言うことをきけ、本件は却下だ」
「ですから、それは専務の権限ではないと申し上げております。」
それでも山本は、専務に正対して静かに言い返した。
「なんだと、経営の指示を何だと思っている!」
「ですが、手続きは手続きです。本件は役員会から権限移譲された案件、権限移譲を取りやめ、専務が自ら却下するというのであれば、正式な役員会で決定してください。こんな非公式な茶番劇では納得できません」
「経営の指示を茶番劇だと、」
遠く離れた専務の歯ぎしりの音が聞こえてくるようだ。
烈火のごとく怒り心頭に発するとはこのことだろう。
「沖田君を呼べ!」
担当取締役を君付よばわりしているが、その言葉もむなしい。
「沖田取締役はアジア会議のため今週不在です」
後ろに控えていた秘書の島津が小さくとも通る声で言った。
「事実なのか」
誰が言ったのかわからないくらいの声が聞こえた。
それが専務の声だと気づくか気づかないかのあたりで、専務は叫び声を発した。
「だから、島津君、その権限移譲は事実なのか!」
島津は静かに起立して凛として答える。
「それが事実かは私にはわかりかねます。役員会の権限移譲の管理は審査部の職掌になります」
会議室内の人間が一斉に大渕副部長の方に注目する。
大渕副部長が静かに起立して答える。
「事実です」
「くそっ、吹けば飛ぶような小さな案件にいれこみやがって、バカどもめが。本件は私が、別途、頭取に相談する。みなは好きに解散しろ!」
捨て台詞を吐いて、岩井専務は会議室を出ていった。
嵐のような一幕に、支店長と課長はおろおろしているが、他の出席者は、三々五々解散していった。関係部署の部長には、総括担当のいわゆる出世コースに乗った各部のエースである総括職員らがつき従っているが、支店の人間には誰も声をかけない。巻き込まれないように警戒しているのだろう。
そんな中、大渕審査副部長のみは、帰り際に支店の席に寄ってきて、労うような笑顔で声をかけてきた。
「山本君、嫌な思いしたな」
「いいえ、大渕副部長には、いろいろご配慮いただきまして」
「ご配慮なんて特にしていない。権限移譲の件は、結局、岩井専務の圧力があると状況は変わらないけど、時間が稼げたので、まだやりようはある。まぁ、本件は審査部の矜持にかけて通すから安心して」
その穏やかな物腰に、何故この人が偉くならないのだろうと思いを巡らす山本の顔をどのように感じたのか、副部長が言葉を続ける。
「岩井専務もいろいろ感情的だったが、あまり気にしないでいいよ。彼は彼で・・・・・・」
「いいえ、専務には勇気をもらいました」
「勇気、とは」
「あんな人でも専務になれるなんて、もしかして、将来、私が専務になる可能性もあるな、なんて」
「ふふふ、それはいい、山本君が専務になったら、うちの会社も安泰だな。とにかく、本稟議は、よくできていた。お疲れさまでした」
大渕副部長は山本の肩をたたいて去っていった。