【連載小説】稟議は匝る 11 札幌 2006年12月22日
(子どもの喧嘩)
その日も山本の帰宅は、0時を回っていた。
特に珍しいことでもない。帰るなりシャワーを浴びて、Tシャツとトランクスのパンツ一丁でテレビの前に座る。チャンネルを合わせるのは、いつも同じCSの通販番組だ。画面の中で、金髪でマッチョな怪しげなおっさんと、栗毛のスタイルの良い女性が、軽快な会話を交わしている。特に何か欲しいものがあるわけでもない。ただ、この明るいが、特にどうでもよい通販番組を見ながら、遅い晩御飯を食べるのが山本の日課だった。
こんな遅い時間でも、妻は寝ずに待っている。上げ膳据え膳で、山本が食べている間、隣に座ってにこにこしているのも、これもまた日課であった。
しかし、その日は、少し様子が違った。ひととおり、食事が終わったところで、妻が話し出した。
「お疲れのところ悪いけど、ちょっと相談があって」
真剣なトーンで話しかけられ、山本も少し居ずまいを正す。
「ん、どうした」
「子どもの喧嘩で、煩わすのもあれなんだけど、ちょっと度が過ぎているから、一応、耳に入れておこうと思って」
山本には小学生の子供が二人いる。どちらも男の子だ。
「子どもの喧嘩って、うちの太郎か。何かあった?」
言いながら、山本はのんびりした性格の長男の顔を思い浮かべる。
そういえば、今週はまだ起きている時間に帰ったことがないことを思い出した。
「うん、社宅の中の、田辺さんところなんだけど、うちの玄関の前に、鳥の死骸を置いてたみたいで」
「鳥の死骸?いたずらで?」
ギョッとして思わず声のトーンが高くなる山本を妻が目線で制してきた。
起きてしまうでしょうと子供部屋の方向を指さす。
「うん、本当にやりすぎよね。最近、玄関の前によくゴミが置かれているなぁ、誰かのいらずらだろうとは思っていたのだけど、まさか子どもがやってるとは」
妻もため息交じりに肩をすくめる。
「なんでそれが分かったの?」
「それが、田辺さんところ小学3年生と1年生の姉妹でしょう、下の妹さんがお母さんに言いつけたんだって。姉ちゃんが死んだ鳥を太郎君のおうちにもっていっているって」
「真っ青な顔で、田辺さんの奥さんがうちに来て、何度も頭を下げていたわ。姉妹はわんわん泣いているし、狭い社宅だから、たぶん上下階には聞こえていたと思う」
全国転勤必須、しかも辞令は異動の2週間前にしか発表されない農林銀行では、どこの支店にも必ず社宅がある。ありがたいものだが、家族ぐるみで四六時中会社関係者の中で生活するのは、それなりの気苦労があるのも事実だ。
「それは、大変だったな、田辺さんの奥さんも大変だね」
「まぁ、そのあとは、うちに入ってもらってね。ちょうど頂き物のゴディバのチョコがあったから、みんなで食べてたら、子どもたちはケロッとして遊んでいたわ」
シリアスな出だしのわりに、軽い着地に、大事にならなかったのなら良かったと、山本も安堵した。
「うん、円満に済んだのならよかった」
「そうね、そのあと、田辺さんといろいろおしゃべりして、最後は落ち着かれて帰っていったわ」
「でも、あれだな、鳥の死骸だなんて、子どものすることは分からないな、自分の手で持ってきたってことでしょう」
「そうなのよ、大人じゃ気持ち悪いけど、子供はあんまりそんなの気にならないのかしら」
一人で不思議がる妻に、しかし、ただの嫌がらせにしては、思い切ったことをすると山本は問うた。
「それはそうとして、田辺さんとこのお嬢ちゃんも、何か太郎に嫌なことされたのかな、鳥の死骸なんて、よっぽどだよね」
山本の指摘に妻も頷く。
「それが、田辺さんとこのお嬢さん、眼鏡をかけているでしょう。それを太郎が眼鏡、眼鏡ってからかったらしいの」
「そりゃ、太郎も謝らないと」
「そうなの、だからその場で謝らせたんだけど、そしたら太郎が、そっちがヒトエっていったからだって」
「ヒトエ?目の一重まぶたのこと?」
「そうそう、別にだからどうだってことじゃないけど、太郎本人もよくわかってなくて、何か馬鹿にされたと思ったんじゃない?目を指さされて一重一重って言われたから、そっちは眼鏡眼鏡って。ほんと子どもの喧嘩って、たわいないことが原因よね。」
「話を聞いているとじゃれているだけのような感じも気がするけど」
「そうなのよ、鳥の死骸も、何か困らせてやろうと玄関前にペットボトルとか置いたらしいんだけど、私がすぐに片づけてしまうから、これでもか、これでもかってエスカレートしたみたい」
「ふーん、当の本人らはどうなんだ」
「それが、大人の心配なんかよそに、いつもどおり走り回って遊んでいるのよ」
「子どもの喧嘩けんかに親が口出しするなって、本当だよな」
「そうよね、今回は、どちらの親も冷静だったけど、これもどちらかの親がねぇ」
何か引っかかる言い方をする妻に、あまり突っ込んで聞くと長くなりそうな予感がした山本は、話の矛先を変えた。
「うん、話はよく分かったよ。ビール追加でもらおうか」
心得たもので、妻もこの話題は仕舞にした。
「この話、田辺さんのご主人には」
「言わないよ、向こうから言われても知らないふりをするよ」
「そうね」
妻は立ち上がり、台所からエビスビールとキンキンに冷えた新しいグラスを持ってきた。さあどうぞと言って、グラスにビールを注ぐ。
琥珀色の泡を見ているうちに、山本はふと思いついて口を開いた。
「論語の一説にさぁ」
言い始めると、かぶせるように妻が言葉を継いだ。
「はいはい、伺いますよ、孔子の熱血授業ね」
「そんな、聞き飽きたみたいに」
「聞き飽きてますけど、伺いますよ」
「それじゃ、賢を見ては斉しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省りみるってのがあってさ」
「はい」軽くうなずく妻。
「立派な人を見たら同じようになりたいと努力し、そうでない人がいたら、自分にもそんな欠点がないかと反省するってことなんだけど」
「なんか、普通のことを言っているような」
「そうそう、普通のことなんだけど、ここの味噌は、うちに自ら省りみるってとこなの」
「なにが味噌なの?」
「普通、先生だったら、悪い人がいたら指摘してあげなさいって言いそうなところじゃない」
「それじゃだめなの」
「そうそう、孔子は、決して人の間違いや欠点を指摘するなって考えなの」
「それじゃよくならないんじゃない」
「孔子は、まず自分が立派になる、手の届く範囲で、自分の周辺も立派にしていく、その過程は、人から指摘されるのではなく、自分自身で気づいて改めていくことが重要だといっているのよ、それにみんなが周りの欠点を指摘する世の中って殺伐としていない?だから孔子は、悪い人や間違っている人を見ても、それを指摘するなっていっているんだよ」
「なんか見てきたみたいね」
「そうそう、俺は、論語を読んでいるとその時の様子が、目に浮かぶんだ。1番目に浮かぶのは、伯牛、疾ありかな」
興がのってきたところで、すくっと妻は立ち上がると、あくびをしながら、台所からナッツの入った真空の缶をもってきた。
「すみませんけど、ありがたい話で眠くなってきたので、私は先に休ませてもらいます。」
どこか、決然として言う様に、山本も頷く。
「ああ、おやすみ」
論語のくだりで、妻が寝るのもいつものことだ。山本もよっぱらっているから、話を聞いていても、そうでなくても、あまり関係がない。ワインをグラスに注ぎ、真空缶をあけた。
この缶は、15cm四方の缶であるが、ボタンを押すと中が真空になるという優れモノで、山本はすこぶる気に入っている。アーモンドやピスタチオなど食べ残しても、いつまでも鮮度が保たれる。ご飯を食べ、ビールを飲み、あとは、アメリカの通販番組を見ながら、ナッツをだらだらと食べながらワインを飲む、いつもの日常に戻っていった。