【連載小説】稟議は匝る 17-1 東京・日比谷 2007年5月9日 (専務との対決)
東京都千代田区有楽町1丁目。
皇居が見える場所に、農林銀行の本店がある。
戦後の混乱期にGHQが本部を置いたその場所は、大理石造りの古い建物を包み込むように近代的なビルが建設されている21階建てのビルだ。
札幌支店の職員が本店に出張する場合、千歳空港7時発の便で本店到着が9時20分。千歳空港までは電車で40分程度のため、結果、当該職員の起床は5時前後となり、寝不足での本店詣でとなる。当然、札幌からの出張は毎度日帰りコースで楽しみもない。
研修所は都内ではあるが郊外にあるので、支店の担当が本店を訪れるのは審査部との内部打ち合わせが大半だ。そしてほぼ100%怒られるためだけに来る。支店の担当はそれを審査部のガス抜きと揶揄やゆする。ガス抜きの手順はこうだ。
審査部長以下、審査の担当ラインが並ぶ中、支店長が案件の説明を行う。
今回は白銀水産の件だ。審査部と支店の打ち合わせは、好ましからざる案件の通過儀礼といってよい。すでに担当ベースで審査部の了解は取り付けているが、支店長がそこまで言うならやむを得ないでしょうという態で、なんとなくの内部のオーソライズを形成するのだ。
実際は、審査部長が後日行われる役員会の席で、
「先日、何某支店長に支店の対処方針案を説明するため審査部に来ていただき、その案件の難しさ、支店の苦しい立場について伺いました。」
と前置きを入れるためのエクスキューズ会議と言っても良い。しかし、この無駄に見える独特の儀式を経なければ、白銀水産の再建は成らず、藤沢の努力も水泡すいほうに帰す。
そして、9時25分。
山本をはじめ札幌支店の面々は、いつもどおり7階の審査部のフロアに到着した。審査部とはすでにまとまった案件での来訪、山本の心持ちも幾分か軽い。
だが、審査部の総括担当の豊川先輩が、今日の打ち合わせは急遽、11階で行われると告げてきた。11階は、役員会議室だ。常にない急な変更に山本はいやな予感を覚えたが、支店長たちは特に、感想を述べることもなく、あっさりと階段の方へ向かう。
学生時代登山部だったという札幌支店長は、「君たちはエレベータを使いなさい。」などといった気を遣う風のセリフを言うが、部下が支店長を差し置いてエレベーターを使えるわけもなく、結局、毎度全員が階段を上ることになる。
山本は、すぐに追いかけますと言って、支店の一行を見送ると、審査総括の豊川に小声で話しかけた。
「先輩、今日の打ち合わせは7階中会議室だったのでは」
豊川も小声で返す。
「それが、岩井専務が本件に関心があるらしく、急遽、今日の打ちあわせに参加することになって」
豊川は申し訳なさそうに下を向いた。
岩井専務。
農林銀行始まって以来のマーケット出身の役員だ。
銀行は、おかしなもので役職は年功序列であるが、いわゆる出世コースは役職では計れない。なぜなら、農林銀行においては出世する人間は、たどる部署と職掌が明確に決まっているのだ。
たとえば、一般的には銀行支店長は権力者と思われているものだが、農林銀行では、チームリーダーぐらいの意味でしかない。農林銀行では、本店の各部署の総括担当といわれる30代の職員が現場の方針をすべて指図し、各支店の評価もすべて決めてしまう。つまり、役職ではなく、今、所属する部署とその職掌が権力の大きさを決めているのだ。
マーケット部門(投資部門)の若い担当は、ひとり1日、10億円まで損を出していいといわれ、毎日11桁以上のお金を動かすが、出世はしない。部長まで上り詰める担当は稀だ。マーケット部門はコースから外れている。
だが、岩井はマーケット部門のはえぬきとして、初めて役員に昇進した。
よほど優秀だったのか、何か特別な事情があったのか。
岩井の歯に衣着せぬ言動は、多くの優秀な職員を辞めさせてたと言われており、山本はいい評判など聞いたこともなかった。行内では、屍の上に今の地位を築いたと、みなに妬ねたまれている人物だ。
札幌支店の登山部とは関係なく、山本は7階からエレベータであがった。
11階でおりると役員秘書に出迎えられ、
「札幌支店の皆さまは、すでに会議室にお入りです」と告げられた。
会議予定開始時刻の30分も前なのに、といぶかしく思いながら、山本が大きな2枚両開きの扉を開けると、汗が自分の首を伝ったのを感じた。