【連載小説】稟議は匝る 4 根室 2006年10月18日
[根室 2006年10月18日]
その日山本は、根室東部漁協の敷地内にいた。
ここには、海沿いに頑丈なコンクリートで補強された上に、物見やぐらのような建物がある。
6メートルくらいはあろうかという鉄の螺旋階段を登ると、8畳くらいの真四角の部屋がある。山本は顔を出したところで、
「中川参事、お邪魔します」
と声をかけて中に入った。
「おう、勝手に入って、今ちょうど仕事しているから」
山本が、落ちないように部屋に入ると、
「靴のままでいいから」
と双眼鏡を覗いている参事が見えた。
真四角の部屋は、壁紙などなく、おそらく杉の柱の外側にトタン板を張っただけの簡単な作りだ。天井もなく、屋根のトタンも見えている。
部屋の海側の方が前面のガラス窓になっており、長テーブルと、パイプ椅子があり、長テーブルには、電話付きFAXと無線機が置いてある。
部屋の脇に置いてあったパイプ椅子を広げ、山本は中川参事の作業を終えるのを座って待った。
「ちょっとまって、いま記録するから」といって、
中川参事は、ぼろぼろの大学ノートに、ボールペンで線を引いただけのところに日付と時刻と125トン、1隻と記載している。記録を書きながら、何やら電話をしているようだ。
「はい、こちら根室監視室、125トン、1隻以上です」
ガチャ、黒電話の受話器を下す音がする。一瞬の電話だ。
「参事、ここの部屋は初めて来ました」
「おう、へやってほどのもんでもないべな、監視小屋よ」
「監視小屋?」
「そうそう、毎日8時、12時、16時に海を見て、見える未確認船の記録を書いて提出するのよ」
「提出するってどこへですか」
「自衛隊よ、今、はなしたべな」
「電話でいいのですか」
「そうよ、毎日電話と、帳面に記録、めんどくさいけど、これで年間2000万円もらえるからな」
これも大事な定期収入だよと頷く参事に山本はのけぞった。
「2000万円、漁協にですか」
「そうさ、おらにだったら、賄賂になるべさ、2000万円もらったら、多少刑務所さはいってもいいけどな、はっはっは」
豪快に笑う中川参事に世の中まだまだ知らないことだらけだと山本は頭をかいた。
「すごいですね、国境警備のサポートですか」
「そんないいもんでもねぇ、何でも自衛隊の話じゃ、こんまい船はレーダーでも見落とすんだと、実際の目で見た情報の方が正しいだとさ、大丈夫かね、日本の防衛は、はっはっ。」
「中川参事、無線機などもありますが」
「これな、わしは使ったことねぇ、十年以上前に自衛隊が、ここさ置いてったんだけど、わしは使い方分がらね」
中川参事はポンと無線機を叩いて見せるが、十年以上使っていない無線機が果たして有事ゆうじに役に立つのかなと思ったところで山本は、はたと重要なことに気づいた。
「・・・でも参事、こんな国家機密、私に話して大丈夫ですか」
他に誰もいないのに思わず小言になる。
「国家機密なぁ、んだども自衛隊からは内緒にしてけろって言われてねぇし、いがべ。」
「その未確認船は何なのかわかるんですか」
「そりゃ、ロシアの国境警備隊だべさ、カニの密売に来ているんだわ」
ロシアの国境警備隊がカニの密売?
なんかいろいろ聞いてはいけない話を聞いてしまったような気がして、話を切り替える。
「すみません参事、今日は、漁協さんの自己査定のチェックに来ました」
「したら、いったん、下に降りるべ」
鉄の螺旋らせん階段をコツコツと降りていく。下りながら海を見る、本当にこの季節の道東の海はきれいだ。すんだ青がキラキラしている。そんな景色とは裏腹に物騒な話だ。
もし中川参事の言うとおり、この100トンクラスの船をレーダーで捕捉できないとなると、各船に武器を搭載しても100人弱の人員輸送が可能だ。これを数隻配置すれば、地方の都市などは簡単に制圧できるかもしれないし、道東建設の佐藤社長の話もまんざら嘘じゃないかもしれない。まるで映画のような場面が頭に浮かび、思わず山本は息をのんだ。
ミサイル防衛や、スクランブル発進などは、国境の町にはあまり関係ないのか。それにしても、掘ったて小屋と大学ノートと黒電話とは、たくましいと感じるべきなのか。鉄の螺旋階段を降りてきたところで、中川参事が話し出す。
「おらの母親はもともと津軽の藤崎ってとっから、わげぇときに国後(北方四島の1つ)にうづって暮らしてたのさ。そしたら、すぐに戦になって、負け戦の時におらをおぶって船で逃げたのさ。おらは全然覚えてねぇんだども、その時、左腕を撃たれて、死ぬまで左手が不自由だったのさ」
「それは、何と申し上げてよいか、大変でしたね」
「なんも、おらは大変じゃね、したども、かかぁはまんず苦労したのさ。おやじは赤紙で引っぱられで帰ってこねぇで、左手不自由な中、1人でおらを育てたんだ。そんなかかぁが最後まで言っていたのは、誰も恨んじゃまいねぇ、ってそればっかり言ってたんだ」
鉄の螺旋らせん階段を下りてきたところで、漁協の組合員らしい女性が、こちらに気づき、遠くから叫んでいる。
「中川参事、それでは、お先に失礼します」
「おう、おつかれさまだ」と中川参事は、手をふって見送る。
組合員らしき女性は、大きく一礼して、砂利の駐車場の方に置かれた自分の車の方に去っていった。
「人様を恨んで一生を終えたら、むなしいだけだ。男子たるもの何でもいいから人様の役に立つことをしてから死ねって、いつも言ってたんだ」
「立派なお母さまですね」
「んだ、そったらかかぁも、ばばの墓参りに国後に行きたいってのが最後の頼みだったんども、それがかなう前に死んでしまったんだ」
鉄の螺旋階段を下りてきてから、ずっと立ち話をしている。中川参事は何か話したいようだ。
「北方四島っていっているのは、政治家だけだ。この辺の地元じゃ、二島の返還で、なんも問題ね、その二島の返還で、船の拿捕はだいぶなくなるし、昆布漁もなんも問題なくできるようになる」
「すみません、不勉強で。しかしそれでは、国後、択捉、出身の人は困るのじゃないですか」
「なんも、戦から何十年たって、そこにはロシアの普通の人らがもう住んでいるのさ、誰も、その人らを押しのけて帰りたいと思っている奴はいねぇ。そったらことよりも、ロシアのもので構わないから、元島民は、墓参りなんかに自由にいかせて欲しい、それぐらいの望みなんだ」
北方四島のうち、歯舞、色丹は、日ソ共同宣言により、平和条約締結後に日本に返還されることになっている。中川参事は、早く平和条約を締結し、二島だけでも返してもらった方が、地域社会に貢献するし、元島民も、墓参り等で、国後、択捉に行きやすくなると言っているのだ。
また漁船の拿捕も、歯舞、色丹沖が圧倒的に多く、無駄に命を脅かされることもなくなる。この地域の主要な漁業である昆布漁も、同二島の沖合が良い漁場であるから、国後、択捉にこだわる必要がないという意見だ。
道東地区を担当していると、ほとんどすべての方々が、この話をする。続けて話されるのは、そういった地元の意向を無視した政治家の四島返還に固執した旗振りに対する不信感だ。四島返還は、重光葵が最初のボタンの掛け違いに気付いた後も、あえて修正せず戦後一貫して唱えてきた間違った掛け声である。元島民や地域の声を無視して、無用な対立をあおられ、関係ない人ばかりが無駄に声を荒げてきた。おそらく、この中川参事をはじめ、元島民や地域の方々は、何万回とこの話をしてきたのだろう。いつか世論が変わる日を信じて。
山本は自分の無知を素直に恥じた。しっかりしなければ、今のままで精一杯生きているといえるのか、もっともっと励まなければと気持ちを新たにしていると、中川参事が柔らかい津軽弁で話しかけてきた。
「山本さー、昆布干したのを、はちみつに漬けたのあるんだばって、くってぐが」
「うん、くってぐ」私は満面の笑みでこたえる。
今日もまた、最終便の帰りになりそうだなと時計を見ながら、中川参事の後ろに着いていった。