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【連載小説】稟議は匝る 2-1 札幌 2006年5月8日
(札幌 2006年5月8日 )
農林銀行札幌支店は札幌のシンボルともいえる大通り公園に面する。
大通り公園といえばさっぽろ雪まつりをはじめ、春のライラックまつり、初夏のよさこいソーラン、夏のビアガーデンと道外の人間にとってはとかく観光地のイメージが強いが、実際は道内の第一第二地銀本店をはじめ道外の大手金融機関も軒並み支店を構えるビジネス街だ。その中でも地上3階で延べ床面積約1000坪の威容を誇る農林銀行は、地方支店にしてはかなり大きい部類だ。
店内は大まかに分けて1階は窓口と業務課、2階は営業課、3階は食堂等職員用のバックヤードで構成されている。支店職員は100人弱いるが20時を回ったこの時間、1階には山本だけ残っている。2階にも、おそらく若い担当が2,3人残っているだけだろう。農林銀行は数年前に過労死と思われる事案が続出し、労働局から目をつけられている。
以来、会社は残業にうるさくなり、20時30分には、ほとんどの職員が帰宅している。それでも残っているのは、仕事をすることしか能がない寂しい人種だけだ。
仕事は探せばいくらでもある。山本は常々そう公言してきたし、実際に仕事に邁進し結果を出すことで内外からの不平を押さえつけてきた。
そんな彼が再び「白銀」の名を意識したのは今から3か月前にある男と出会ったからだ。
無意識に山本は机の引き出しを開け「白銀水産」とタイトルの入ったドッジファイルを取り出した。その瞬間、外線電話が鳴る。これが虫の知らせか。そう思いながら受話器を取るとやはりあの男からだった。あの男は、すべて見透かしたようにこちらが周りを気にせず話をできる時間に、わざわざ電話して来るのだ。男の名は藤沢。北和銀行の調査役で、今は銀行を離れ釧路市を拠点とする白銀水産に経理部長として出向している。
初めて藤沢にあったのは、2月の初め頃だ。
担当赴任の挨拶周りのため釧路空港に行った時だった。
札幌から釧路までは電車で5時間以上かかるため電車による日帰りはできない。そのため多くのビジネスマンは、道内を飛行するプロペラ機を利用する。札幌からバスで20分ほどの場所にある丘珠空港から釧路空港までは飛行時間およそ40分、36名ほどの定員で、いつ乗ってもほぼ満員だ。釧路空港ではプロペラ機からタラップで降りたのち、飛行場を徒歩で移動する。他に飛行機がいないのでぶつかりようがないのだが、それまで釧路航空に縁のなかった山本にとっては驚くべき驚く光景だった。
朝一の便の釧路着は8時10分。
丘珠空港までは、支店から意外に時間がかかる。
社宅は5時半に出た。当然起きたのは、それよりもっと前だ。驚きながらも、あくびが止まらない。あくびも白くなる寒さの中、コートのポケットに手を突っ込んで、山本はこぢんまりとした飛行場をこばしりで渡る。空港を囲むフェンスの辺りにはうっすらと雪が残っている。
意外に雪が積もらないのも、釧路の特徴だ。一般に東北以北は大雪に違いない、さらに北海道は2階まで雪が積もっていると誤解している人は少なくないはずだ。しかし、どんな地域でも、山の西側に雪が降り、山の東側の雪は少ない、特に太平洋側の海沿いは、本当に雪が積もらない。
ただし雪が降らないだけで、凍てつく寒さなのは変わりがない。むしろ雪が積もっている地域の方が、雪が保温効果を発揮し、温かく感じるものだと山本は北海道に赴任して初めて知った。
ロビーを通り抜けてレンタカー屋に向かう。
狭い空港のロータリーの歩道を歩いていると、反対側に止まっている車から降りた男が手を振りながら近づいてきた。
髪は短髪、中肉中背だが、姿勢が良いためで背はあまり低く感じない。歩く足の踏み込みも強く、おそらく柔道か何か格闘技をやっていた人だ、と山本は思った。
「山本さんですよね」
融和な笑顔を浮かべたまま男が言った。灰色の作業着を着ている。
山本が怪訝な顔をするのを見るや、
「わたくし、白銀水産の経理部長をしております藤沢と申します。北和銀行から出向で来ています」
と早口で続ける。
営業職の反射で
「あっ、お世話になります山本です。」
と応え終わる前に、早口の藤沢は続ける。
「昨夜、御行に電話した時に、女性の職員の方から山本さんが今日こちらに出張と伺ったものですから。早速ですが、山本さん、我が社にいらっしゃいませんか」
ほんの1、2分前にあったばかりなのに、山本さんと何回言ったのだろう。十年前からの知り合いのようだ。
「山本さん、よかったらうちの車にお乗りください」
さあこちらへ、と人好きのする藤沢の笑顔に、つい用意された車のほうに足を向けかけ、山本は、はっと今日の予定を思いだした。まさか白銀水産のために1日つぶすわけにはいかない。
「いいえ、他にも挨拶回りをするのでレンタカーを借ります」
「分かりました。では、レンタカー屋までどうぞお乗りください」
レンタカー屋までは、おそらく歩いたほうが早いのではと思われるぐらいの距離だ。それでも、レンタカー屋につくまでの少しの間に、藤沢は喋り続ける。
「この便で来るとよく分かりましたね。私は自分の会社に飛行機の便までは伝えなかった」
早口の藤沢は、質問を最後まで言わせない。
「私が札幌から出張に来る場合は始発に乗ります。たぶん白銀水産の担当になる方は同じ感覚だと思いました」
「それでも私の顔はわからないでしょう」
「ええ、あなたが山本さんだと分かったのは、御行の電話の女性から恰幅の良い方だと伺ったもので」
ふふふ、と藤沢は笑いをこらえるように言った。
山本は電話の女性を的確に思い浮かべることができた。
大熊勝子。東大薬学研究科の博士課程をおえて、今年農林銀行に入行した変わり者だ。詳しくは聞いていないが、薬学は飽きたらしい。頭の良さや漫画のような名前は、風貌に現れなかったようで、小柄でおしゃべりな女子中学生みたいに見える、お調子者だ。おそらく「シロクマみたいにでかくて太いからすぐ分かると思いますよ」ぐらいの軽口は言ったのだろう。
本来、今日の目的は着任の挨拶回りなので取引先のアポイントは特に入れていない。山本にとっては、社長がいなければ名刺を置いてくるだけで、まずは挨拶に来たという事実を残すことが目的の気楽な出張だ。銀行員の挨拶回りのスケジュールは担当の匙加減さじかげんでどうにでもなる。「ちょっと急いでまして、ひとまず名刺交換だけでも」と言えば1、2分で帰れるし、自分の生まれや育ちについて一通り説明し、相手先の社名の由来まで伺うと簡単に1時間も居座れる。
だがそんな自分で勝手に作ったスケジュールは無視して、結局、山本は藤沢の車の後を追うことにした。