三年越しのメッセージ
どこかで学校の鐘が鳴る。こんなときでも鐘だけは動いているんだ。でも、その響きはとてつもない風のとてつもない音にかき消されて、瞬く間に私の耳から消えていく。
ああ、まだ眠いよと、私はゆっくりまぶたを閉じる。風はまた、ガタガタ、ガタガタと、頭の先にある窓ガラスを揺らしている。
今日はもう、寝させてはくれないのね。そう思った私は、今度はゆっくりと目蓋を開け、暖かい布団に包まれた重たい体をじんわりと腕で持ち上げて、膝をついた。カーテンの隙間から、薄黄色く光る朝の太陽の輝きがちらりと見えた。
もうどれだけ長いこと、この家に閉じこもっているのだろう。外には出るに出れなくなった。そうなると、元々交友関係が広かったわけではないけれども、私が誰かと話す機会はますます減った。家族とさえ、一日中何も言葉を交わさない日がある。そうすると、だんだんだんだん私の頭は吐き切れなかった言葉でいっぱいいっぱいになってきて、胸がひっくり返るような、とても起き上がってはいられない状態になる。
今日も、その気があった。吐き出し切れていない、それも言葉になりきっていないようなどろどろどとした嘔吐物のようなものが、胸にむかむかとつっかえている。そんな気持ちの悪い状態で、親に「おはよう」と大して心にもない言葉を口にするのは嫌だった。
どうしようもなく、私は再び布団を頭からかぶり、体を小さく丸めてうずくまった。でも、視界は暗くなっても、頭はもう覚めている。胸のつっかえもいくらか治まってはくれたけれども、それもやがて戻ってくると知っている。私はどこにも行けず、どこにもいられなかった。
ああ! このままいっそ死んでしまおうか。そう思った矢先に、ヴーと何かが小刻みに震えて動く音がした。もう何日も充電器につながったままの携帯電話の音だった。誰からだろう? いや、誰からでもないだろう。でも、ひょっとして誰かからだったら? それでも別にきっと大したことじゃない。でも、このまま布団の中でうずくまっているのも嫌だったから、私はちょっとずつ、頭の方から亀が顔を出すようにして布団を上げ、右手にある自分の勉強机を見た。
携帯電話は机の端にまで迫ってきており、今にも落っこちてきそうだった。私は布団から這い出ると、体を起こし、膝をついた状態でゆっくりと机に向かった。そして携帯電話をぎりぎり手の届くところで掴み取ると、ボタンを押して画面をつけた。
私はまぶたの重い目をぱちくりさせて見開いた。そこには私が気づかなかったメールの数々が並んでいた。宛名を見ると、全て莉央からだった。小学校の頃の同級生だ。でも、もう長いこと会っていない。最後に会ったのは、三年前。駅前で偶然会ったのを、莉央に引き止められ、無理やりアドレスを交換させられたのだ。ただ、それっきり連絡は何もなく、私は莉央とアドレスを交換したことさえ忘れていた。
いつからメールは溜まっているんだろう……私は気になり、画面を指でなぞっていった。すると日付が五月十日、今日からちょうど十日前の日になって、ようやく最初のメールにたどり着いた。その間、日に二、三通のメール、計二十件あまり。そのどれもが「梨奈へ」で始まり、後ろの言葉が隠れていた。
私は試しに一番古いメールを開いてみた。するとそこにはこう書いてあった。
梨奈へ
久しぶり。元気にしてる?
突然メールしてごめんなさい。でもね、これはきっと梨奈にしか書けないと思ってメールしました。
私ね、この頃ちょっとおかしいの。家にずっとこもっているせいかな。この頃ずっと、誰とも喋っていない。家でも、あんまり喋らない。普段はもっと喋っていたのにね。どうしてだろう?
何だかずっと喋っていないと、頭がおかしくなりそうだよ。それで、誰かと喋りたくて……連絡先を見ていたら、梨奈を見つけたわけ。
返信、ちょうだいね。待ってます。
この頃ちょっとおかしい……その言葉だけ、小さく呟いてみた。莉央も、人と喋っていないんだ。ずいぶん会っていないけれど、こうして同じ境遇で、同じことを感じている人が身近にいると知るだけで、私は妙に安心した気分になった。
私はその日の次のメールを開いてみた。
梨奈へ
メール、まだ見てないのかな。
私はずっと暇です。暇で暇で死にそうだよ。
返事、待ってるね。
次のメールは五月十一日の日付を打っていた。そこには、こう書かれていた。
梨奈へ
昨日は、忙しかったかな?
それとも、突然のメールでびっくりしちゃった?
読んでたら、返事ほしいな。
わがまま言ってごめんね。
返信、待ってます。
その次のメールも、前の二つと大体同じようなことが書いてあった。私は三日目、五月十二日の最初のメールを開いた。
梨奈へ
どうして梨奈へメールを送っているかって?
それはね、きっと身近な人に心配されたくないから。
私、多分見栄張ってるんだ。
だって学校で毎日会うような友達に、寂しいです、なんて言えないもの。
昔は誰かに助けを求めるなんて、簡単にできたのにね。
今はとっても勇気がいるよ。
どうしてだろうね。
返信、待ってるね。
次のメールは二日目に届いた二つのメールと大して変わりなかった。でも、その次のメールにはこうあった。
梨奈へ
もう詳しいことは忘れちゃったけど、小学生のとき、一度だけ私を助けてくれたことがあったよね。どうしてかは思い出せないけど、私、あのとき、さんざん泣いて……
そこに梨奈が来てくれた。それで、頭を撫でてくれたんだ。覚えてるかな? 私は、覚えているよ。
そのときのことがとっても懐かしいです。
返信、待ってます。
ああ、あれはきっと、莉央が男の子にいじめられて泣かされたときだな……今の今まで私も忘れていた。そんなふうに、人を助けたことも、私にはあったんだな。
次のメールにはこうあった。
梨奈へ
梨奈……どうして私は梨奈へこんなにたくさんメールを送っちゃうんだろう? 学校の他の友達には、こんなにたくさんメールを送ったことなんてないのに。
きっと、私、昔のことが本当に懐かしいのね。だって今は生きている心地がしないもの。
三年前、久しぶりに会ったときに、どうして私が梨奈にあんなに夢中になってアドレスを交換して欲しいって頼んだかわかる? 私、きっとね、梨奈に頭を撫でてもらったときのことが本当に懐かしいんだと思う。泣いていたけど、あのときが一番幸せだったんだなって、そう思うの。
今はね、誰と会っても人に会っている気がしないの。それはきっと、外に出られるようになっても同じ。外に出たところで、私が出会うのは、人の仮面を被った顔のない人。
だから梨奈、私には梨奈が必要なの!
四日目のメールは、そのほかにこういうメールがぽつりと届いているだけだった。
梨奈へ
迷惑だったら言ってね。でも、一言だけでいいから、返信してね。
五日目は、何も届いていなかった。でも、六日目になると、次のようなメールがばらばらと、立て続けに届いていた。
梨奈へ
一日だけ待ってみたけど、やっぱり、私には待つっていうことが無理みたい。こんなんじゃきっと、迷惑だって言われても、ずっとメールを送り続けちゃうね。
でも、お願い、一言だけでいいから聞かせて。
梨奈は今、生きているの?
梨奈へ
心配で心配で夜も眠れません。
私の中で唯一生きている本物の人間、梨奈。私が唯一心を開いて何でも話すことができる梨奈。あなたがいないと、私はこの先どうやって生きていけばいいか、本当にわからないの。
梨奈へ
ごめんね、家に篭ってばかりだったから、きっと頭がおかしくなっちゃったの。でも、そうじゃなくても頭がおかしくなりそうだった。ここ数年、私は人間と思える人に出会ってこなかったから。
でも、本当は私こそ、人間じゃないのかな?
誰にも心を開けない。前はそんなんじゃなかったのに。前は誰とでもすぐに仲良くなれたのに。
梨奈、大人になるって、そういうことなのかな?
梨奈へ
今日はちょっと疲れちゃった。だからもう寝るね。返信は、明日見るね。
七日目は、次のようなメールが一つだけ届いていた。
梨奈へ
今日はちょっとお腹が痛い。きりきりきりきり、ずっと私を小さく細かく切り刻むの。だんだん、生きているのがいやになってきた。
八日目は、二通、こんなふうに届いていた。
梨奈へ
きっと私、どこかで間違えたんだ。だから昨日、自分のメールを見返したの。
私、ばかね。ちっとも素直になってない。私には梨奈が必要だってことを、最初にきちんとまっすぐ伝えていなかった。梨奈以外じゃだめなんだってことを、しっかり伝えていなかった。そりゃ、無視されても当然だよね……
ごめんなさい。こんなにたくさんメールを送って。でも、本当に、本当に、私には梨奈じゃないとだめなの!
梨奈へ
返信待ってます。いつまでもいつまでも、待ってます。
ところが九日目のメールにはこう書いてあった。
梨奈へ
やっぱり、もうだめなのかな……私、メールの中で昔の梨奈を梨奈に押し付けて……たくさんのメールを送って、迷惑なことばかり言って……ちょっとの懐かしさに浸りたいだけだったのに、こんなにも大切な人にお願いばかりして……
だめ、もう、だめ……これ以上メールを送ったら……でも、私には、梨奈が最初で最後なの……。
梨奈へ
ごめんね、梨奈。私にはもう待つことはできないみたい。お腹も痛いし頭も重いよ。ごめんね、生きるのに、ちょっと疲れた。
こんなメールを送ってごめんね。でも、梨奈ならきっと、私のことを理解してくれるはず。だってあのときだってそうだったんだもの。私を優しく慰めてくれた。その優しさに、私はいつまでも浸っていたかった。でも、それってわがままだよね。そしてこれから私がやることも、きっとわがままなんだ。
十日目、つまり今日のメールはもう、一言だけだった。そこにはいつも通り「梨奈へ」という宛名と、「さようなら」の一言だけが書いてあった。
私は携帯を充電器から乱暴にひったくり、ドアを開け、階段を駆け下りた。玄関ではお気に入りの靴もちゃんと履かず、かかとを踏んづけたまま、扉を開けて駆け出した。
莉央、もうちょっとだけ待っていて。私はまだ、生きている。あなたがずっと大切にしてきた私も、まだ生きている。だから、まだ、生きていて。私こそきっと、ずっとあなたを待っていたの!