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絵画の記憶

 川沿いの土手、わたしたちが歩いているところのその先に、台の上に斜めに立てかけられたキャンバスに向かって、ちっぽけな折りたたみ椅子に座りながら休む間もなくすごい勢いで手を動かし続けている人がいる。ところどころに白い雲が浮かんでいる快晴の下、白いシャツを着ているその姿は、日の光を反射して真っ白に輝いており、目の中に浮かび上がるような眩しさを伝えている。そういえば、わたしは、もう何年も絵を描いていないな。最後に絵を描いたのはいつだろう。あれは、この人と出会う前、わたしがまだ学生だった頃かもしれないな。
 どうして絵を描くのをやめたのか、今となってはもうあまり覚えていない。小さい頃から好きだったのに、あるときぴたりとやめてしまった。わたしには才能がない……そう思ったのかもしれない。でも、今じゃ自分がどんな絵を描いていたのかすら、あまり思い出せない。動物の絵……描いていたかもしれない。風景の絵……描いたかもしれない。ああ、高校生の頃、美術部だったから、石膏蔵のデッサンとかは少しやったかもしれないな……でも、その石膏像が男だったのか、女だったのか、それとも手の部分だけだったのか、それもよく覚えていない。

「なっちゃん」

 急に声をかけられて、肩がびくっと飛び上がる。左を見ると、子どもを乗せたベビーカーを押しているヒロくんがいる。

「え……な、なに?」

「なんだか難しい顔をしてたよ」

「そ、そうかな……?」

「うん、とっても。何考えてたの?」

「う、ううん、ちょっと昔のこと。あんまり覚えていないんだけど」

「昔のことって?」

 ヒロくんが首を傾げて突き詰めてくる。わたしはその視線から目を背けて、少しためらった後にこう答えた。

「あのね、わたしね、学生くらいのときまでは、ずっと絵を描いていたんだけど、大人になってずっと描いていないなって」

「え、それは初耳だなあ。なっちゃん、絵を描いていたの」

 わたしたちは、あのキャンバスに向かって夢中で手を動かしている人の後ろを横切った。絵の中には、その人の前に広がっている川と土手、そして空の景色が、淡い彩りで色付けられていっている。

「どうして、絵をやめちゃったの?」

「えっ?」

 どんどん色鮮やかになっていくキャンバスの上の絵に目を奪われていると、再び急に話しかけられる。ヒロくんの目は、興味津々といった感じで輝いている。

「どうしてって、それがわたしにもよくわからないんだよね。多分、大学生くらいまではいくつか描いていたと思うから、就職活動とかが忙しくなって、やめたんじゃないかな……」

「そっか、僕たち、氷河期世代だったから、面接めちゃくちゃ受けたもんね。あれは大変だったなあ」

「ヒロくんは、学生の頃の記憶ってまだはっきり残っている?」

「うん? そうだねえ、あんまりきちんとは残っていないかも。でも、自分が何を好きでやっていたかは、きちんと覚えているよ。ほら、今日だってこれ、持ってきたし」

 そう言うとヒロくんは、右手をベビーカーから離して、左肩にかけている鞄から一眼レフのカメラを取り出した。真っ黒なボディは、日差しを受けて少し白んでいる。

「それ、好きだね。飽きないの?」

「飽きないよ。同じものを撮っていても、いつだって違う表情を見せてくれるし、毎回違う表情を見せてくれるものの写真を撮ろうと思ったら、僕だって毎回あの手この手で撮影の仕方を変えなきゃいけない。その、なんて言うのかな、駆け引きのようなものが、とっても面白いんだ」

「駆け引き……」

「そう、駆け引き。例えば、ほら、ねねだって……」

 そう言うとヒロくんはベビーカーの中で寝ているねねを上から覗き込む。ねねは、気持ちよさそうにすやすやと小さく息をしながら眠っている。

「眠っているけど、その表情だって、一分、一秒毎に全然違うんだ。そういう動きの中で、自分のカメラワークを合わせていって、ぴったり一致するところで初めてシャッターを押す。それができた瞬間といったらもう、写真を見なくてもこれは良いのが撮れたって直感でわかる感覚だよ。やみつきになる」

「そういうものなのかなあ……」

 わたしはヒロくんの話をぼんやりとした感覚で聞いていた。こういう話は、これまでも何度か、聞いていた。でも毎回、ヒロくんの言う感覚というのが、わかるようでわからない。でも、確かにヒロくんの撮る写真は、何かとても活き活きとしていて、例えばカワセミのような野鳥を撮った写真なんかは、目がじっとこちらを見据えていて、それを見るわたしの胸の奥とまで繋がっているような感覚を覚える。そしてわたしは、会社で出会ったヒロくんの、そんな写真を見て、彼に惹かれたのだった。

「なっちゃんは、どんな絵を描いていたの?」

「わたしは……」

 ひゅうっと目の前を右から左へ燕と思わしき小鳥が飛んでいく。それを目で追うと、川をはさんで遠くに霞んだ富士山が見えた。そういえば、風景画は、よく描いたかもしれない。そう、わたしの故郷の、あの高原の原っぱ。風がそよそよと心地よくて、胸いっぱいに吸い込んだあのひんやりとした空気をなんとかして絵に込められないかって頑張って描いたっけ。でも、何度描いてもなかなか思うようには描けなくって、そのうち受験がやってきて、東京に出てまた絵を描いてやろうと思ったら、都会の空気はどこにいってもどんよりしていて、結局つまらなくなってやめちゃったんだっけ。

「そういえばなっちゃんは、最初僕のカワセミの写真が好きだっていってくれたね」

「えっ? う、うん……?」

「あれはさ、カワセミの方が、なんだか撮ってくださいって言っていたような気がしたんだよね」

「なあに、それ?」

「いや、都会にいるとさ、なんだかどこを見ても、きらきらしていているくせに、自信がなさそうじゃん。ここはもっと大げさに撮っていいけれど、ここはだめ、みたいな。建物とか見ても、ぱっと見綺麗だなって思っても、裏や中を見てみると結構汚れているようにさ。みんな僕を見て、僕を見てって訴えているのに、誰も自分の全部を見て欲しいとは言っていないんだ」

「カワセミは、違ったの?」

「うん、カワセミはね、もうカメラを構える前から僕のことをじっと見ていた。まるで写真を撮らなきゃ、自分はここから一生動かないぞって言っているような目で。でもそれって、相当覚悟がいることだよね。だってどこを撮られるかは、カメラマン次第なんだもの」

 ぷっとわたしは吹き出した。カワセミの覚悟って……。でも、ヒロくんの言いたいことはなんとなくわかった。都会で絵を描き始めたときは、一体どこを描けばいいのかわたしにはわからなかった。ようやく見つけた風景も、二枚、三枚と続けて描いていくと、どれも似たようなものになっていることに気がついた。描けば描くほど、場所は違えど似たような雰囲気の似たような絵しか出来上がらない。高原にいたときのような、あの捉え所のない、それでも確かに体で感じ取っていたひんやりとした空気、吸うたびにどこか違って感じられるような、それでいていつも同じような心地よさを感じさせてくれる空気を、見出すこともできなかった。

「ねえ、ヒロくん」

「なあに?」

「今度、ねねもいっしょに山に行って、一緒に絵でも描いてみない? わたし、久しぶりに描きたいな」

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Takuto Ito
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