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当然のことが当然でない不合理

社会生活を営む上で、あらゆる人と接する。家族、親戚、友人、職場などなど。

僕は職場の人間関係においては日々悩まされてきた。家族や友人など利害関係のない人に対しては、合わなければ一定の距離を保つことができる。しかし、会社という組織において、上司や部下、同僚などとの関係は避けることはできない。そういった中で良好な関係を保つにはあらゆる面で妥協が必要となる。しかし、その妥協は仕事の進め方など多種多様である。

職場内で感じたことは、仕事が出来ない人が上に立ち、出来る人が下に落ちる何とも不合理なことであった。つまり、仕事を出来ない人が出来る人に仕事を回し、出来る人は仕事を抱え込むことである。仕事の対価として受け取る給与が同じとするのであれば、それは全く不公平である。

と愚痴を並べても進歩はないのでここまでとして、それが人材としてのリスクとして別の視点から考えてみた。

出来る人は仕事を抱え込むと先に述べたが、それだけならまだ良い。日々の業務をこなせる能力があるならば問題ない。例え待遇に不満はあれど。

しかし、それが健康面に影響を及ぼした場合、どうなるのだろう。仕事量が多い人は残業も多くなる傾向が多々あった。連日の深夜まで及ぶ残業、休日出勤。それは健康面に影響を及ぼす影響は大きく、最早、潰れるまでの時限爆弾状態となる。

仕事を抱え込み状態となった人はもう、表情を失い、疲弊しきっているのが伺がえる。そして、とうとう健康面から休暇、休職となってしまう。

仕事の出来る人を一線から失うのは会社にとっても大きな損失となる。健康面から休んでしまう人は全て精神疾患であった。精神疾患は一度なると難治となるケースが多く、その人に与えるダメージは大きなものである。

幸い我が社においては、病気になった時の休暇、給与といった面のサポートは大きかった。

その結果、判りやすく言えば、仕事の出来ない人が出来る人を潰し、その社員の将来のみならず、会社にも損失を与えているのである。これは不合理と言えるしかほかならない。

原点から見ると、そもそも論として、仕事が出来る人が能力を伸ばし、出来ない人はそこまでといったところだろう。それは競争社会における原点であり、その能力によって給与が違うのは当然のことである。

この当たり前のことが、職場、ひいては会社全体としての浸透していないのが原点であり、そこが狂っているため、不合理を生み出しているのであった。

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