きょうの霊枢 百病始生篇 第六十六(3) 2023/6/22
百病始生篇の3回目です。
人はどのようにして病むのか、という大きなテーマについて、前回は「邪」が体内にどのように侵入してくるかについて確認しました。
復習も兼ねて振り返ってみますと、以下の流れで体表から体内に邪が入り込み、気血と一緒になって「積」をつくり、それが各部位に張り付く、というところまで前回確認しました。
皮膚(腠理、毛髪)
↓
絡脈(孫脈)
↓
大経、経(経脈)
↓
輸(輸脈)
↓
伏衝の脈
↓
腸胃
↓
募原の間(腸胃の外)
膂筋
緩筋
これを受けて、今回は「積」が各部位に張り付いたときにどのような病態を示すか、ということが中心になります。
それでは見ていきましょう。
黃帝曰 願盡聞其所由然
(黃帝曰く、願わくは盡く其の由りて然る所を聞かん。)
歧伯曰 其著孫絡之脈而成積者 其積往來上下
臂手孫絡之居也 浮而緩 不能句積而止之
故往來移行腸胃之間 水湊滲注灌 濯濯有音
有寒則䐜䐜滿雷引 故時切痛
(歧伯曰く、其の孫絡の脈に著きて積と成る者は、其の積往來上下して、孫絡の居に臂くや、浮きて緩ければ、積を句えてこれを止むる能わず、故に腸胃の間を往來移行し、水、湊まり滲みて注灌すれば、濯濯と音あり、寒あれば則ち䐜䐜と滿ち雷引す、故に時に切痛す。)
※著 白川先生の『字通』によると、呪符としての書を埋めて邪霊の侵入を防ぐときに、その書に呪的な力を付着させるところから「つく」。その呪力が著明であることから「あきらか」の意味となる。邪が気血と混ざって「積」となり、それが身体の各部位に張り付いてしまうのを良く表している字だと思います。
※濯 水鳥が水上で羽ばたいて水を叩くように、すすぎ洗いをする意味。『説文解字』では「あらうなり」とある。
※ 其積往來上下 臂手孫絡之居也
『甲乙経』では「臂手」を「擘乎」とし、テキストでもそれにならって「其の積往來上下して、孫絡の居に擘くや」と読み下している。
一方で、柴崎保三先生は原文のまま「其の積、臂手(上肢)の孫絡の居に往来上下す」と読んでいる。
※ 浮而緩 不能句積而止之
テキストでは「浮きて緩ければ、積を句(とら)えてこれを止むる能わず」と読み下している。
「句」は白川先生の『字通』によれば「手足を曲げて屈葬の象」をルーツとして、そこから「まがる」が基本的な意味とのこと。「句」の意味の取り方がかなり異なります。
さらに、柴崎先生は「浮して緩なるは、句積して之を止むることを能わず」と読み「句」を「区切って」の意味で読んでいるので、なかなかに解釈が分かれるところのようです。
※ 䐜䐜滿雷引
「䐜䐜滿」は胸腹が脹満すること。「雷引」は、腸中雷鳴し、かつ牽引するような疼痛があること。
其著於陽明之經 則挾臍而居 飽食則益大 飢則益小
其著於緩筋也 似陽明之積 飽食則痛 飢則安
其著於腸胃之募原也 痛而外連於緩筋 飽食則安 飢則痛
(其の陽明の經に著くは、則ち臍を挾みて居り、飽食すれば則ち益ます大に、飢うれば則ち益ます小なり。
其の緩筋に著くや、陽明の積に似、飽食すれば則ち痛み、 飢うれば則ち安んず。
其の腸胃の募原に著くや、痛みて外に緩筋に連なり、飽食すれば則ち安んじ、飢うれば則ち痛む。)
※ 陽明の經 足の陽明胃経と思われる。
※ 緩筋 前回も登場しましたが、歴代の医家は「陽明(経)筋」として解釈しているもよう。なので、足の陽明胃経のケースと類似するとのこと。
※ 腸胃之募原 こちらも前回登場しましたが、小腸や胃の間膜組織、特に「大網」を指すのではないかとされています。
消化器系に「積」が付着すると、というケースですが、食べてお腹いっぱいなのか、それとも空腹でお腹がすかすかなのかで異なる、としています。
其著於伏衝之脈者 揣之應手而動 發手則熱氣下於兩股如湯沃之狀
其著於膂筋 在腸後者飢則積見 飽則積不見 按之不得
其著於輸之脈者 閉塞不通 津液不下 孔竅乾壅
此邪氣之從外入内 從上下也
(其の伏衝の脈に著く者は、これを揣れば手に應じて動き、 手を發ぐれば則ち熱氣、兩股に下り、湯沃の狀の如し。
其の膂筋に著きて腸の後に在る者は、飢うれば則ち積見れ、飽けば則ち積見れず、これを按ずるも得ず。
其の輸の脈に著く者は、閉塞して通ぜず、津液下らず、 孔竅乾き壅ぐ。
此れ邪氣の外より内に入り、上より下るものなり。)
※ 伏衝之脈 こちらも前回登場しましたが、いくつかある衝脈の走行のうち、脊椎の前を上行する深い、伏したルートが「伏衝」の脈ではないか、ということでした。
※ 發手 挙手、手を挙げること。手を挙げると、上肢に溜まった「積」の熱気が下って、湯を注いだように股関節の方に向かっていくという、少し変わった病態が示されています。
※ 膂筋 こちらも前回登場した、脊柱の前にある筋。脊柱の前から起始する筋といえば、大腰筋が有名ですが、本文でも「飢うれば則ち積見れ、飽けば則ち積見れず、これを按ずるも得ず」とあって、空腹のときは腹部から大腰筋が触れる、と言っているようにも見えます。
この、大腰筋に腹部から触れられるのか、触れられないのかは論争のあるテーマで、例えばTwitterでも有名な小柳ニハク先生はブログで大腰筋の触察方法について述べられています。
ちなみに、この段落について馬蒔は以下のように註をしています。
此れ上文を承け而して積の各所に在る者は其の状に不同有りまた病の由りて始まる所有るを詳言するなり。
夫れ所謂邪の孫絡に在りて積を成す者は、其の積、臂手孫絡の居に往来上下し、浮して況せず、緩して急せず、積を據えて之を止むる能わず。
故に其の内に往来相移して、腸胃の間に水湊聚注灌する有り、濯濯として音有り。且つ、寒気有るときは則ち䐜滿し、雷の如く聲有り而して相引く時、常に切痛を為すなり。
其の陽明経に着くとは即ち胃経なり。其の積は当に臍を挟んで居すべし。もし飽食のときは則ち益々大きく、飢ゆる時は則ち益々小なり。
其の緩筋に着くや、前の陽明の積に似て、飽食するときは則ち痛むこと益々大なるの謂の如く、飢ゆるときは則ち安く、則ち益々小なるの謂の如きなり。
其の腸胃の募原に着きて積痛むときは、則ち外緩筋に連なり、もし飽食するときは則ち稍安く、飢ゆるときは則ち必ず痛む。
其の伏衝の脈に着くは、手を以て揣模するに其の積は手に応じて動じ、手を挙ぐるときは則ち熱気両股間に下り、湯を以て沃ぐの状有るが如きなり。
其の膂筋に着くは、膂筋は腸胃の後ろに在るが故に積も亦腸後に在り。其の飢ゆる時に方っては則ち積反って見われ、飽くときは則ち積見われず、之を按ずるも亦得るべからざるなり。
其の輸の脈に着きて積を為す者は当に閉塞して通ぜず、津液下行せざるべし。故に孔竅皆乾き壅がるなり。
凡そ所謂積の成る者は、皆邪気の外従りして内に入り、上従りして下に之く者なり。
以下は張志聡の註です。
此れ上文を承けて、留着して積を成す者は各々形證有るを申べ明かめるなり。
孫絡とは腸胃募原間の小絡なり。蓋し、胃府の出だす所の血気は胃外の小絡に滲出し、転じて大絡に注し、大絡に従いて孫絡皮膚に出づ。其の内の孫絡に着きて積を成す者、其の積、其の臂手孫絡の居を外に往来上下するなり。
浮して緩なるは、其の積を拘束して之を止むる能わず。故に腸胃の間に往来移行す。胃府の水津、外に滲注するときは則ち濯濯として聲有り。蓋し、孫絡に留滞して大絡に注する能わざるなり。
陽明の経は乃ち胃の大絡なり。故に臍を挟みて居す。飽くは則ち水穀の津は外に注す。故に大。飢ゆるときは則ち津血少なし。故に小なり。
緩筋とは腹内の筋を経するなり。故に陽明の積に似たる有り。飽くときは則ち脹る。故に痛む。飢ゆるときは則ち止まりて安きなり。
募原とは腸胃の膏膜なり。飽くときは則ち津液は外に浸潤す。故に安し。飢ゆるときは則ち乾燥す。故に痛むなり。
伏衝の脈は臍を間に挟む。故に之を揣ずれば手に応じて動き、手を発するときは則ち熱するは、衝脈の血気の外に充すればなり。
衝脈は下りて陰股に循って、脛気の街に出づ。其の気は両股に下りて湯沃の状なる如きは、積に因りて熱を成せばなり。
膂筋は脊膂の内、腸の後に在り。故に飢ゆるときは則ち積見われ、飽くときは則ち見われずして之を按ずるも得ざるなり。
輸の脈とは、津液を転輸するの脈にして蔵府の大絡なり。胃府の水穀の精は胃の大絡に従いて蔵府の大絡に注し、蔵府の大絡に従いて皮膚に出づ。故に積の輸の脈に著するときは則ち脈道閉塞して通ぜず、津液下らずして皮毛の孔竅乾きて塞がるなり。
此れ邪気の外従りして内り、上従りして下り、以て其の積を成すなり。
次回はこの続きで、「積」がどのように形成されるのか、病態生理的な部分に黄帝と岐伯が迫っていきます。どんな話になるか楽しみです。
それでは、今回も最後までお読み頂き、ありがとうございました。
また次回よろしくお願いします。