きょうの素問 玉機真蔵論篇 第十九(7) 2024/1/18
なかなか終わらない玉機真蔵論ですが、今回で7回目です。
ヘッダの写真があるときは私が発表を担当している回ですが、ない時は医師の先生に講義をして頂いている会で、私も勉強させて頂いております。
というわけで、今回は勉強させて頂いた内容をまとめている回です。
それでは読んでいきましょう。
真肝脈至 中外急 如循刀刃責責然 如按琴瑟弦
色青白不澤 毛折 乃死
(真肝脈至ること、中外急に、刀刃を循づるが如く責責然として、琴瑟の弦を按ずるが如く、色、青白にして澤しからず、毛折るるは乃ち死す。)
※ 真
金文では、匕(さじ)+鼎(かなえ)で、容器に物を満たすさま。充填の填(欠け目なくいっぱいに詰める)の原字。
そこから、他に雑物が混じっていない意味となり、「真肝脈」は、本来の「肝脈」をコーティングして覆っている「胃気」が無くなってしまい、剥き出しになっている状態。
ちなみに、『素問』の宣明五氣篇によれば、五蔵の脈は以下のように定義されている。
肝 = 弦
心 = 鈎
脾 = 代
肺 = 毛
腎 = 石
※ 中外
表層の脈(軽く按じて触れる脈)も、深部の脈(重く按じて触れる脈)も、の意味。
※ 責責
責の上部は先のとがったとげや刃物の象形。そこから「刺す」の原字。
非常に鋭利な様子を示す。
『素問攷注』で森立之先生は、責は「魚脊(セキ、ふな)」に通じるとして、鮒の背びれに触れるような感覚ではないかと考察されています。
※ 瑟
おおごと。琴の大型のもので、弦を指でつまんで演奏する。
※ 色青白
青は「肝」の色。白は「肺」の色。
肝と肺は相剋関係。(金剋木)
※ 毛折
呉崑の解説。
「皮毛に衛気がゆきわたると皮毛は充実する。毛が折れるというのは、衛気敗絶のしるしである。」
真心脈至 堅而搏 如循薏苡子累累然 色赤黑不澤
毛折 乃死
(真心脈至ること、堅にして搏ち、薏苡子を循るが如く累累然として、色、赤黑にして澤しからず、毛折るるは 乃ち死す。)
※ 薏苡子
謂わずと知れた、ハト麦。テキストでは短・実・堅の脈だとしている。
※ 累累
もとは田が3つ重なっており、ごろごろと積み重なったさまを描いた象形文字。それが糸でつながって数珠つなぎになっている状態。
ちなみに、「ジュズダマ」の種子は「川穀(せんこく)」という生薬になり、薏苡仁の代用として使われていたそうです。
※ 色赤黑
赤は「心」の色。黒は「腎」の色。
心と腎は相剋関係。(水剋火)
真肺脈至 大而虛 如以毛羽中人膚 色白赤不澤
毛折 乃死
(真肺脈至ること、大にして虛、毛羽を以て人の膚に中るが如く、色、白赤にして澤しからず。毛折るるは乃ち死す。)
※ 色白赤
白は「肺」の色。赤は「心」の色。
肺と心は相剋関係。(火剋金)
真腎脈至 搏而絕 如指彈石辟辟然 色黑黃不澤
毛折 乃死
(真腎脈至ること、搏ちて絕え、指もて石を彈くが如く辟辟然として、色、黑黃にして澤しからず、毛折るるは 乃ち死す。)
※ 辟辟
右側の「辛」は、刑罰を加える刃物。左側は平伏している人で、人体を刃物で引き裂く刑罰を表すとも言われる。
高士宗の解説。
「辟辟とは行ったり来たりが不規則であること、「石を彈くが如し」とは、脈象が円く硬く柔軟でないことである。ここではもっぱら石脈のみ現れて胃気がない。だから腎の死というのである。」
また、柴崎先生は「辟辟然」とは、表面は硬いようであるが、薄っぺらで深みがなく、底のないさまを形容するもの、と解説している。
※ 色黒黄
黒は「腎」の色。黄は「脾」の色。
腎と脾は相剋関係。(土剋水)
真脾脈至 弱而乍數乍踈 色黃青不澤 毛折 乃死
(真脾脈至ること、弱にして乍かに數、乍かに踈、色、黃青にして澤しからず、毛折るるは乃ち死す。)
※ 乍
刃物でさっと切れ目をいれること、ある動作をすることをあらわす。
そこから、「たちまち」の意。
日本読みの「ながら」はもともとの意味からは誤用だと言われている。
※ 色黄青
黄は「脾」の色。青は「肝」の色。
脾と肝は相剋関係。(木剋土)
※ ここまでの五臓の並びをみると、木→火→金→水→土 で、「土」が中央の配置を意識していることがわかる。この考え方は、土の「胃気」が他の四蔵の気をコーティングしている、という考え方につながる。
諸真藏脈見者 皆死 不治也
(諸々の真藏の脈見わるるは、皆死して治せざるなり。)
黃帝曰 見真藏曰死 何也
(黃帝曰く、真藏を見わすを死と曰うは、何ぞや。)
歧伯曰 五藏者 皆稟氣於胃 胃者五藏之本也
藏氣者不能自致於手太陰 必因於胃氣 乃至於手太陰也
(歧伯曰く、五藏なる者は、皆氣を胃に稟く。胃なる者は五藏の本なり。藏氣なる者は、自ら手の太陰に致すこと能わず。必ず胃の氣に因りて、乃ち手の太陰に至るなり。)
※ 皆稟氣於胃
稟は収納した作物のこと。そこから、受ける、授かる、授けるの意。
『甲乙経』に「人は常に気を胃から稟けている。脈は胃の気を基本とする。」とある。
※ 致
目指す所まで届ける、こちらまで来させるなどの意味。
病邪の侵入により、胃気が本来届くべきところまで届かず、蔵の気だけが届いていることを述べている。
故五藏各以其時 自為而至於手太陰也
(故に五藏各おの其の時を以て、自らなして手の太陰に至るなり。)
故邪氣勝者 精氣衰也
(故に邪氣勝つ者は、精氣衰うるなり。)
故病甚者 胃氣不能與之俱至於手太陰
故真藏之氣獨見 獨見者病勝藏也 故曰死
(故に病甚だしき者は、胃の氣これと俱に手の太陰に至ること能わず。故に真藏の氣、獨り見わる。獨り見わるる者は、病、藏に勝つなり、故に死と曰う。)
帝曰 善
(帝曰く、善し。)
最後は、胃の気が伴わない「真蔵の脈」が現れる状態は病が非常に重篤であるというまとめが述べられています。
さて、長かった「玉機真蔵論」も、ようやく次回が最後となります。
五蔵の病の様々な形について述べられてきましたが、最後は治療法と予後のみたてについて触れるようです。
それでは、今回も最後までお読みいただきありがとうございました。