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劇場版・ヴァイオレット・エヴァーガーデンの感想・考察

劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンの感想を書いていこうと思います。ただひたすらに私が思ったことを書き殴っていくだけです。言い訳じみていますが、それぞれ、映画に求めるものも、実際に見た感想も異なってくるでしょう。みんな違ってみんないい、否定せず「まあ、そういう考えの人もいるかもね」ぐらいに思っていただければと思います。

というのも、私は、この映画の「ある一側面」があまりに好きすぎて、刺さりすぎて、それ以外が正直蛇足だと考えてしまっているからです。

また、さらに注意点ですが、どうしてもネタバレを含むことになります。まだ未視聴の方はぜひ映画館に足を運んでみてください。映画が終わっていたらDVDを借りてみてください。テレビやyoutubeを見るよりも上質な2時間があなたの人生を満たしてくれることでしょう。


さて、↓以下、スクロールしたあとで、私の感想です。





本編感想

「あ、これはだめなやつだ(褒め言葉)」というのが私の感想でした。私はヴァイオレット・エヴァーガーデンの中でも10話がダントツで好きすぎて、また、同時に「これこそが神回だ!」と信じています。

今更この感想を見ている人に言うまでもないことかもしれませんが、10話はアンの物語です。以下で感想も書いてますが、「手紙がつなぐ物語」というテンプレートを徹底的に完璧に作り上げた回です。

映画が始まった瞬間の映像は、まさに10話で何度も見た風景、そして、映し出される少女は、アンに似た少女。一瞬「アンかな?」と思いました。ですが少女は「デイジー」という名で呼ばれます。彼女はアンの孫――祖母であるアンの死を母とともに見送ったあとのシーンでした。

このシーンだけで私の感情は最高に揺さぶられました。一つにアンが長生きをしたということを喜ばしく思ったのです。それは、アンの母であるクラーラの50通目の最後の手紙まで受け取ることができたということです。母の願いをアンは一つ達成し、次の世代の命を育て上げることができました。

ですが、私はどうしても(勝手かもしれませんが)悲しさを抑えることができませんでした。一つは、50年目の手紙は、母との別れを意味していると思ったからです。ほんとうの意味での別れの手紙がそこにはあったからです。二度も別れを味あわせるぐらいなら、手紙なんて残さなければよかったのに、とさえ、思いました(少しだけですが)。

もう一つの悲しみとしては、アンの生き方が、あまりにも美しく、強く、だからこそ、涙がこぼれました。デイジーの母親であり、アンの娘は医者(あるいは看護師?)として人を救っているという描写がありました。また、だからこそ忙しく、家族と十分な時間を過ごせなかったとも、、、デイジーは「おばあちゃんは、お母さんともっと一緒にいたかったんだと思う」という旨の言葉を言っています。

もう、ズルすぎます。こんなことってあるか! って思いました。ジレンマすぎるんです。本当は自分の子供との時間を過ごしたかったアンが、子供の仕事のためにその時間を制限される。本当であれば、家族との時間を過ごしたい。でも、それが他の誰かを救うための仕事なのであれば、――母と同じような人を、あるいは、自分と同じような思いをする人を一人でも救える仕事なのであれば、家族と過ごしたいのを抑え込んで「いってらっしゃい」と言ってあげること。人間の強さとは、この理性にあるのではないかとすら思いました。

「おばあちゃんは、お母さんともっと一緒にいたかったんだと思う」というのはデイジーのセリフでありつまり「私はもっとあなたと一緒にいたい」とアンは言っていないことが読み取れます。本当はやりたい家族と過ごすことよりも、より多くの人を救うことをアンとアンの娘が理性で選んだということだと私は思いました。

この理性の強さに対して、私はアンの強さを思うと同時に、(正確には悲しさと言うべきかわかりませんが)私は悲しく思いました。今のように医療が発達していれば、多少はデイジー一家の仕事も楽になったかもしれず、時代のせいで、アンは娘との時間を奪われたような心地になったからです。

ですが、そんなアンだからこそ、きっと手紙よりも深いところで母クラーラとのつながりを再発見できたのではないでしょうか。他の漫画の話になってしまいますが、ヒカルの碁で佐為を失ったヒカルが以後の中に佐為を見つけたように、娘と過ごす生活の至るところで「母もこんなふうに感じたのかもしれない」と思ったのだと思います。

娘の成長に一喜一憂し、そしてクラーラを超え、娘が働く姿、孫の姿まで見届けることができ、手紙の母の言葉が、今度は母の立場となって、その愛情を認識することができたのではないかと思います。

(2点。自分でも日本語が怪しくてすみません。また、言葉の綾で書きましたがクラーラを超えているかと言われれば、それは、わかりません。幼き我が子の別れを耐えるほうが遥かに難しく、同時に、愛情を比べることなどできないことだからです)

最期にアンは満足して、この世を旅立ったのか、という点が私は気がかりでした。「もっと幼き我が子と一緒に暮らしたかった」と思って後悔して旅立ったのでしょうか。

私は、アンは納得して、この世を去ったと思います。その理由は単純です。(少なくとも、劇中の描写では)アンは自分の娘に手紙を残さなかったからです。

この文章を書いていて気がついたのですが、母クラーラの手紙の全ては、アンを励ますものでした。きっと、肝心なときにそばにいてあげられないクラーラは娘に精神の拠り所として、少しでも助けになるように残したのでしょう。それは、裏を返せば、それだけ娘のことが心配だった、ということを意味しています。

ということは? アンはどうでしょうか?

アンの娘には旦那がおり、自分の家庭を持って、自立しています。拠り所となるのは、母ではなく夫、もはや、アンの娘はアンからの手紙がいらないということを確信させるほどの強さを持っているのだと私は思いました。

もう娘のことは何も心配することはない。

そう思って、アンはこの世を旅立ち、母の元にいったのだと私は思います。

、、、、、と、長くなりましたが、ここまでアンの話しかしていません。2時間の本編のうち、体感20分程度の話をここまで長く語ってしまいました。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の話を求めていた方には申し訳ありません。

もちろん「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の話もものすごく好きでしたし、泣けました。特に大佐が格好良すぎて、すべてのシーンがあざとすぎて(それは、俺の帽子だ)「あれ? これってTVアニメの時の人と同一人物?」ってなりました。「家は俺が継ぐ……行けよ」のシーンは、格好良すぎました。

ですが、私にとって、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」はもはや、タイトルが「アン・マグノリア」と言っても過言ではないほど、アンの10話の存在は大きくなってしまいました。もちろんこれは「ヴァイオレット」の話を否定するものではありません。アンの話はあくまで「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の一部だからこそ輝くのです。

必ずしも主役が人気投票一位になるのとは限らないのと同じ理屈だと理解してもらえれば、幸いです。

最期に、物語の本質とはややそれますが、声を聞いた時、エンドロールのクレジットで声優が諸星すみれさんだったことを確認した時頭の中が、「ふはわわいふわふわ」と訳がわからない感じになりました。

その演出とは最強、究極、というありがちな言葉を通り越していて、いや、もう卑怯ですよ! って感じでした。そもそも、ヴァイオレット・エヴァーガーデンという映画なのに、アンを登場させるだけで卑怯でした。泣いちゃうに決まっているじゃないですか。卑怯すぎて最高でした。

私は、仕事で映画を見に行くのが遅れてしまい、入場者特典をもらいそこねましたが、入場者特典のアンの後日談をもらえた人を心から羨ましく思います。

補足:

途中で、話に上げましたが、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」が好きな人は有名ですが「ヒカルの碁」を読んでみると休日を楽しく過ごせるかもしれません。


ヴァイオレット・エヴァーガーデン10話の感想は以下です。

長文を読んでいただき、ありがとうございました。人生について、考えさせられる物語でした。

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