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恋は盲目
Prologue
恋は盲目だ。恋は世界との繋がりを遮断する。かつて恋をしていた僕も例には漏れず、みんなと同じように僕の視野は狭まり、目に映る小さな世界は彼女ひとりで溢れかえっていた。しかしある時、そんな僕の世界から彼女は消え去り、僕の恋は唐突に終わりを迎えた。僕の視覚は色を失い、僕はこの暗闇から目覚めることなく世界から切り離された。
①
こんなことになっても毎日のように日々は過ぎ去るが、苦しみは日を追うごとに大きくなっていく。今の僕の心にはぽっかりと穴があいていた。僕は毎日ベッドから起き上がることさえせずに、惰性で日々を過ごしていた。会社はまた休んだ。病欠だと、まとまった休みをいただいた。恋煩いって、そこらの風邪よりよっぽど辛いんだな。そんなことを考えたら少し笑えたけど、同じだけ虚しかった。
多分きっと、世界最後の日にも腹は減る。こんな時に空腹を訴える自分の胃が恨めしいと思いながらも、やはり押し寄せる欲求には抗えない。
「人はご飯を食べると、自然と笑顔になれるんだよ。それにね、『おいしい』っていうたった一言でも愛は伝わって、その食卓には彩りが生まれるの。だから、辛いことがあってもきちんとごはんを食べよう?そして、ちゃんと笑おう?」
そう笑顔で語りかけてきた彼女の言葉が脳裏をよぎり、僕の足は自然とキッチンへ向かった。久しぶりに立つキッチンはやけに広い。彼女の気配がまだ残っているようで、でも現実にもう彼女はいなくて。僕は言いようのないその孤独から目を背けるように朝食を作った。僕の唯一の得意料理。泊まりにきた彼女が翌朝に決まってねだるから、自然と覚えてしまった。優しい香りが鼻をかすめる。一口食べてみたが、僕の口から美味しいという言葉は出てこない。代わりに漏れ出たのは、たった1gのため息だった。ため息と一緒に心の澱も吐き出されてくれれば良かったが、僕の体に溜まり続ける悲壮感と行き場をなくしたため息は、僕の体の内と外から重たく伸し掛かってきていた。
それにしても、この数週間で随分と部屋が汚れている。部屋は梅雨の陰鬱さそのままにじっとりとしていて、隅に追いやられたギターには薄く埃が被っている。こんな日は動くのも億劫で、何も考えずにだらだらと過ごしていたかったが、さすがにこのままというわけにはいかない。なにしろこの部屋は梅雨の影響のみならずまるで僕の心を映す鏡のように暗澹としている。いつまでもこのままではいられないのも分かっていた。僕はすべての邪念を心の中から追い出し、作業に没頭した。
久しぶりにかく汗には不思議な爽快感があり、その日はすべての時間を片付けにあてた。部屋があらかた片付いてきたとき、何とはなしにふと本棚に目を見やると、そこには漫画だらけの我が家の本棚にはおよそ不釣り合いな一冊の文庫本があった。異様な光を放つその本の正体を僕は知っている。それは、彼女が最も好きな本だった。彼女は本が好きで、いつも息をするように本を読み、そしてその内容に一喜一憂していた。僕自身はあまり活字を好みはしなかったが、読書をする彼女の横顔を見るのは好きだった。そんな彼女がしつこく貸すと言い、半ば強引に押し付けてきた一冊。あの時はあまり興味を引かれず、結局なんとなく受け取ったままここまで来てしまった。改めてその存在を認識してしまうと、その本がこれまでの僕の心をずっと見透かしてきていたような気がして、僕はどきりとした。僕は本棚から逃げるようにして、再び作業へと戻った。
②
片付けを終えた僕は久しぶりに味わう心地よい疲労感に誘われるように、気がつけばまどろみの中にいた。目を開いた僕は光の世界にいて、遠く向こうにはひとりの少女が立っている。その後ろ姿になにか懐かしみを覚えた僕は吸い寄せられるように彼女の方へ歩みを寄せた。しかしおかしなことに僕たちの距離は離れていく一方で、僕は彼女に追いつこうと走り出した。走っても走ってもその差は開くばかりで、ついには僕の息は絶え絶えになっていた。もうダメかと両手を膝についたとき、少女はこちらを振り向きこう言った。
「光は、時間を奪って輝きを増すのよ」
光に反射してその顔は見えない。夢中になって姿勢を起こしたところで僕の目は覚めた。僕はベッドに横たわり天井を見上げていた。今までには見たことのない、不思議な夢だった。顔の見えない少女の存在を訝る反面、僕の脳裏にはまた別の光景が浮かび上がった。そういえば以前、彼女が同じようなことを言っていた。読書の好きな彼女は、それと同じだけ夜の闇を好んだ。あるとき夜中に目が覚めると、隣りで寝ていたはずの彼女がベランダから差し込む光を頼りに本を読んでいたことがあった。体を起こした僕を見た彼女は「ごめんね」とバツの悪そうな顔をした。
「寝れないの?」
「うん」
「明かりつければよかったのに」
「さすがに申し訳ないし、それに…」
「それに?」
「私は光を安易に信用しないの」
「なにそれ」
「これはあくまで私の主観なんだけどね、光はね、人の時間を奪って輝くの。だから安易に自分を光の中に晒すわけにはいかない」
「ごめん、全然分かんないや、どういうこと?」
「うーん、なんて言ったらいいのかな。例えば、特に何をしたっていうわけでもないのにあっと言う間に夜が来てたなんて日はない?気付いた時には辺りがもう薄暗いの」
「ああ、それはよくあるかも。けどそれってただ単にその日を慢性的に過ごしているからじゃないの?」
「そう、そこなんだよ。外が明るいうちって時間にルーズになりがちでしょ?私たちはそこを光につけ込まれてるの。私たちの怠慢を光が食いものにして、時間を奪っているってことなのよ。大袈裟に言ってしまえば昼なんていうのは人間が活発に行動している時間っていうよりも、むしろ人間の最も怠慢な時間だって言っていいのかもね」
「面白い話だね。じゃあその原理で言うと、夜はどうなるんだい?」
「気になる?夜はね、人が最も真摯になる時間なの。例えば何か悩み事がある時にはなかなか寝付けなくて、夜を永遠に感じることはない?人は夜からすべてを生み出しているの。電球を生み出したエジソンだって、きっと夜と真摯に向き合っていたのよ」
「ふうん。まあ確かに夜は自分と向き合うにはいい時間かもね」
「それに明かりをつけて徹夜しようとする夜が明けるのは早い。それは光が時間を奪おうとするからなのよ」
「人間がその真摯さから生み出した光が人間を怠慢にさせているなんて、なんだか皮肉な話だね。じゃあ君は、時間を奪われないように月明かりだけで読書をしているのかい?」
「半分正解」
「もう半分は?」
「正解は、君の家の光熱費の節約なり」
「それはそれは...我が家の家計に真摯さをどうもありがとう」
「あとね、実は暗闇の中での君の方が紳士的で好きだよ。私は」
「それは違う紳士の方かな?僕だって本当は、心の中には野獣を宿しているんだけどね。じゃあ、紳士な僕と今から踊ってくれますか?」
「ばかだなあ。ほら、私ももう寝るからそれはまた今度。その代わり...ぎゅってしながら寝てくれます?」
あの時はそんなとりとめのない話をする彼女をただ可愛く思っていただけだったが、今思い返すとあの話はあながち嘘ではなかったのかもしれない。きっと僕たちの眩しいほど美しかった時間は、少しずつ、けれど確実に、光たちに奪われていた。
③
目の奥に光が差し込み、瞳を開くと朝が来ていた。一度目が覚めたのは間違いないが、思い出に浸るうちにまた夢の世界へ落ちてしまったみたいだ。僕はあの夢から覚めてしまったことを後悔していたが、そんな僕の気持ちをよそに不思議と目覚めはよく、窓の外の世界がなんだか輝いて見えた。僕は、何かに連れられるように朝の世界へ足を踏み出した。
気付くと僕は、ある場所に降り立っていた。それは、かつての僕たちがよく訪れていた駅だった。僕はおもむろに辺りを見回したが、もちろん彼女の姿などあるはずもなく、僕はまた、ため息をつく。当然だ。彼女がこの駅に来ることはもうない。彼女はなんの前触れもなく、この駅から、この街から、僕の世界から、居なくなってしまった。
僕たちが逢瀬を重ねたこの場所は、彼女の最寄りの駅だった。もともと利用者が少なく、あまり人気のない駅のホーム。もちろん駅員もいない、いわゆる無人駅というやつだ。僕たちはいつもその駅の待合室にいた。他にいくらでもデートの場所はあったろうが、僕たちにとってはその場所が一番だった。この駅は端から見れば到底駅だなどと呼べるものではなく、線路沿いにちょこんホームを拵えたようなつくりをしていたが、それでもきちんと待合室だけは設けられている。冷暖房などはないにしろ、木造のそれは電車を眺めながら男女が語らうには十分な心地よさがあった。
昨日までの雨模様が嘘のように晴れ渡った今日の空。今朝のニュースでは、全国各地での梅雨明けが宣言されていた。眩しい日差しが肌を刺す。線路の向こうには海岸が広がり、水面に反射した光の粒たちが波とじゃれ合っている。待合室の中は生暖かいが、吹き抜ける海風はさらりと心地よい。ベンチに座った僕は、持ち出した文庫本を開いた。家を出る時にまたしても視界に入り込んできたそれを、僕は置いて出ることができなかった。ここにいる時の彼女はたいてい本を読んでいた。一方の僕はいつもギターを弾いていて、彼女はいつも、本を読みながらそっと隣りで歌う僕の声に耳を傾けてくれた。そんな彼女も、僕がある曲を弾き始めると自然に本を閉じ、一緒になって歌った。歌った。思えば僕たちは、晴れの日も、雨の日も、星降る夜も。あの場所に居た。僕はバカみたいに歌い続け、彼女はいつもその隣にいた。明かりのない待合室の中で、微かな漏れ込む月明かりを頼りに、ページを捲り続けていた。今の僕はこのベンチに座りあのとき彼女が当時読んでいたこの本を読んでいる。けれどやっぱり、あの時の彼女の心の内は、結局何も見えてこなかった。
④
ここ最近はだいぶ日が延びた気がする。もう夏だもんな。帰宅した時にはまだ明るかった空が、やっと茜色に染まり始めた。しかし時計を見ると、もう19時を回ろうとしていた。まったく、光はまるで時間泥棒だ。ソファに座った僕は文庫本を開く。小説なんて自分には無縁のものだと思っていたが読み始めると案外面白く、僕はあっという間に三分の一ほど読み進めていた。そして小説を読み始めた僕の心には、懐かしい感情がわき上がっていた。また、自分の曲を作ってみたい。彼女への曲を、作ってみたい。過去にも自分で作った曲を歌うことはあったものの、いまいち感情が乗り切れず、最近ではもっぱら、自分の好きな曲をカヴァーしていただけだった。そんな僕の中に、おそらくふと芽吹いた感情は、少し遅れた春を思わせた。けれどいい。僕は今のこの感情に花を咲かせてみたい。これは、今の僕に必要なことなんだ。きっと。
曲のテーマは、ラブソング。失恋の歌を書いてみようと思ったが、僕には似合ってない気がした。なにより、あの駅で歌っていたあの時の僕たちの幸せな気持ちこそ、歌にするべきだと思った。曲のタイトルは、ひかり。これは、すんなり出てきた。歌詞を考えていると僕は、また懐かしい記憶を思い出した。彼女と語り合った光の記憶だった。
「光は、時間を奪っていくけれど、私たちを正しい方向に導いてもくれる。その光は色んなところにあって、ふと見上げた夜空にあったり、海面をゆらゆらと揺れていたり、歌を歌う君の中から漏れだしていたりするの。だから君が光るなら、私はまっすぐ生きていける。私も一緒に輝けるのよ———」
⑤
それから数日の間、僕は毎日のようにあの駅へと足を運んだ。彼女の置いて行った小説を読み進め、そして曲を作った。相変わらず、ことあるごとに溢れ出るため息は僕の足取りを重くしたが、それでも足を動かした。僕のなかのどこかにある光、君のなかにあったかもしれない光。そんなもの見つからないかもしれない。けれど僕は探す。光にすべてを奪われた僕の世界は、真っ暗な闇のなかにあった。
一寸先も見ることができない。時間の経過も分からない。僕はどこへ向かえば良いのか。止まったままの秒針はいつ動き出すのか。答えが見つからず途方に暮れた僕は目を閉じた。どうせ見えない世界なら見る必要はない。なかば諦めのような選択だった。しかしそこには、微かな光があった。遠くて小さい、けれど確かに僕を照らすもの。似たような景色を以前も見た。走れ。今すぐに。あの光差す場所へ。
走る。走る。走る。
もう少し、もう少しで触れられる。手を伸ばせば。すぐ先に—————。
気がつくと僕は光のなかにいた。微かな光の粒は、長く続く闇からの出口だった。
すぐ目の前にはこちらに背を向けた女性が立っている。振り返りながら彼女は言う。
「あなたを照らす、光は見つかった?」
⑥
週末になると世間は活気を取り戻したかのように賑わう。しかし今日はあいにくの空模様で、梅雨が戻ってきたみたいだった。コーヒーを啜りながらノートと格闘するにはもってこいの天気。彼女の残した小説はクライマックスへと近づき、初めて作るラブソングも着々と出来上がっていた。
曲のゴールが見えてきた僕は、ひと休憩とばかりに再び小説を開いた。物語の世界は無情にも僕の心を幸せな気持ちで溢れさせた。結末を知らない僕の心を。そして物語が最終章に差し掛かった時、本の隙間から何かが落ちた。小さな紙切れのようだ。開いてみるとそれは、彼女からの手紙だった。
『やあ。やっと読んでくれたね。本が嫌いな君はずっと読まずに放ったらかしにして、この手紙の存在に気付くのはきっと何年も後になるんだろうなあ。もし見つける頃に私がおばあちゃんになっているようだったら、その時は覚悟しておいてね。でもまあ、読んでくれたのなら許してあげよう。それでね、この本をここまで読み進めることのできた君にだから、私は言います。私は将来、ふたりの関係がずっとこんな形のままでいられたら嬉しいな。どちらかというと言葉で繋がれていたような私たちの関係だけれど、もし私たちの間から言葉が奪われてしまったとしても、君には想いを伝えて欲しい。私も、きちんと気持ちを届け続けるから。だから、ちょっぴり恥ずかしいけれど、いつもありがとう。そしてこれからも、どうぞよろしくね』
なんだか照れくさかった。彼女がそう思ってくれていたことが何より嬉しかった。けれど、もうそれを伝えることができない現実が、歯痒かった。なぜもっと早く読んでいなかったんだろう。なぜもっと早く、思いを伝えてあげられなかったんだろう。僕はいつでも時間を無駄にしすぎる。きっと僕は、光に甘え過ぎていたんだ—————。
そして僕は、物語の最終章を読み始める。僕が絶望を感じるのにそう時間はかからなかった。彼女はこの手紙を書いていたときに何を思っていたのか。今となってはもう知る術はないのに、そんなことが知りたくて知りたくてたまらなかった。物語の結末は、今の僕にとってはあまりに残酷だった。
⑦
昨日の雨が嘘のように、日曜の空はよく晴れていた。一晩考え込んだ僕は、ある決心をした。読み終えた恋愛小説とギターを抱え、僕は電車へ乗り込む。いつもとは違う電車。僕の乗った急行列車は唸りを上げ、もうすぐあの駅を通り過ぎる。今までの僕らがホームから眺めていた通過列車。今はその列車の中から、もう降りることのない駅を見つめる。僕は、この街を出て行く。過去と決別するために。
目的の駅に着く。なだらかな丘陵のあるこの地域は、晴れた日には丘の上から見下ろす海に陽光が反射し、幻想的な風景が広がるらしい。黙々と歩き続ける。強い日差しが背中を射し、額からは汗が吹き出る。もう少し、もう少しだ—————。
丘の上からは心地よい風邪が吹き、海の眺めはあの駅のホームに勝るとも劣らなかった。なんだ、もうあの景色が見れないと残念がっていると思っていたけれど、案外気に入ってるんじゃないか?
芝生の上に腰掛け、僕は、出来立てのラブソングと、君との思い出のあの歌を歌った。いつもよりほんのちょっと近づいたこの空に響くよう、心のままに歌った。
まだまだ完璧ではないけれど、そこは咎めないでくれよ。
僕は君を忘れない、けれどもう過去に囚われるのはやめるよ。
あの小説に登場した猫は星になったけど、君も同じように、この広い空から僕のことを照らしてくれるかな。
僕、幸せになるよ。笑顔で生きるよ。今までありがとう。ずっとずっと、ありがとう。
Epilogue
借りたままの恋愛小説を墓標に立てかける。長い間僕を悩ませていた視界の靄は、最後に流れた一滴の涙に流され澄み切っていた。そして僕の体にまとわりついていた1gのため息は、涙に中和されて空へ消えた。