新しい名前が欲しい
<1階>唯一無二だけど
今現在においては、この世に自分は一人しかいない。今後脳みその情報がどこかに保存できるようになって、自分を複製できるようになるかもしれないけど。
自分が一人しか存在できないっていうのは僕にとっては窮屈な話だ。「一人しかいないからいいんじゃないか」という風に言う人もいるかもしれないけど、僕はどちらかと言えば自分数人と話してみたい、そしてどうせうまくいかないから取っ組み合いの喧嘩まで発展したい。
とはいえ、そんなことはできない。しかしながら違うことはできる。複数の自分の存在を中に作るふりをすることだ。つまり新しいラベリングをする。
新しい名前を自分につけて、自分を複数の存在にすることだ。
<2階>使い分ける名前
別に今の本名に不満があるわけでもない。むしろすごく好きだ。普通に改名したいわけではない。そこはわかってほしい。
そもそも論でいうと、人間は多様な顔を使い分けている。ペルソナとかっていうやつだ。こういう考え方にはじめて触れたのは教科書で読んだ平野啓一郎さんの「分人主義」に関する文章だったと思う。こういう無意識な使い分けはしているけれども、それを具体的に名前を付けてラベリングするまでには至っていないんだろう。
ただ、作家のペンネームだったり、源氏名、芸名だったり、法名(これは仏弟子になるという誓いの印でもあるが)はそれをやりきった例なのではないかと考える。
それ以外にも、私はこういうことを大胆にやりきった男を私は見たことがある。だいぶニュアンスは違うが。正直それを見たときは驚愕した。その男の名は「両津勘吉」。こちら葛飾区亀有公園前派出所の主人公にして至高の遊び人である。
両津が訳あって超神田寿司で働くことになった際に、公務員が副業禁止であるというのを解決するために(それだけではないけれども)「浅草一郎」という名義の戸籍を買ったのだ。
だいぶ雑な説明ではあるが、まあ、だいたいこうだ。
もう一度言うが、最初にこれを見たときは驚愕した。両津が超神田寿司で働くときは一郎になるのである。板前と警察官というラベリング、二つの自分がはっきりと出ている様に感銘を受けた。
どちらも両津だが、両津ではない。これは本当にすごいことだ。
<3階>自分だが、自分じゃない存在が欲しい
やっぱり名前の効力は大きい。何か限定的な場面で使う名前、行ってみれば着ぐるみみたいなものが欲しい。両津勘吉が浅草一郎になるように。本郷猛が仮面ライダーになるように。
じゃあ、自分の場合はどうだろう。そういう限定的な場面が存在するだろうか。なかなかそういうのはないだろうな。やっぱり創作活動をして、その際に違う名前を使うというのがベターなんだろうと思う。もしくは天気で変えてもいいかもしれない。突飛な考え方だが。
まあ、でもいまこうやって文章を書いているときはタクオノレという風に名乗っているから、半分はできている。これは本名をちょっともじったものであるからじっくり名前を考えられるならまったく今の本名のエッセンスをなくした名前にしたい。
<4階>名前をつけよう、たぶん決まんないけど
通常、親が子に名前をつける際にはどうやってつけるのだろう。作家がペンネームをつける際にはどうやってつけるのだろう。
前者の場合には様々な願いが込められているんだろう。それから画数も気にするし、何となく社会性みたいなものを入れるのかもしれない。親の個性も入るだろう。
後者の場合はかっこよさのほかに、ちょっと文字や読み方の滑稽さみたいなものも入れるかもしれない。それが名前目立ちにつながるのかもしれない。
こう考えると、すごく難しく感じてきた。ちょっとこう、ヒント的なものはないだろうか。
例えば、落語家とかだと師匠が名前を付ける際には自分の字を入れる場合がある。僕が一時期ほんのちょっと調べていた浮世絵とかでもそうだったな。
だったら僕も勝手に誰かから一字もらうのもいいかもしれない。歌川国芳の「芳」みたいに。
見えてきたけど難しい。いっそのこと誰かにつけてもらうか。それでもいいかもしれない。さっきから僕は何の話をしているんだ。
どっちにしろ、その名前を使うシチュエーションも含めてだいぶ検討が必要かもしれない。なんかいい案があったら是非ください。