たぶん一生自立できない僕
<1階>いきなり正面に現れてきた自立
大学に入って、遠くに移り住んだことで今までかすんで見えたものが急に間近に現れた。それは「自立」だ。今まで環境に身を任せすぎていたと急に考えたのである。これは現代においては遅すぎる気づきなのかもしれない。
そもそも自分が甘えてきたとも気づいていない領域が急に裸になったのがまずかった。1年生の時の寮生活やそこから出たときの一人暮らしにおいて何ともない判断に途端に困ることになったのだ。
今の状態は「半自立」あるいは「3分の1自立」かもしれないが、どちらにしても「純自立」ではないのだ。まあ当たり前の話だ。自分は学生の立場であってまだまだ両親をはじめ、周りに助けてもらっているのだ。
しかしながら自立に向けて自分自身の心持ちというのを整えていかなければいけないのは事実だろう。生涯学習はあっても一生学生という立場にはしがみついていれないわけなのだから。
ちょっと待ってくれ。ここまで焦って考えるようになった「自立」の問題だが、これもまた何をもって自立というのかすら僕自身の中で定義できていないではないか。一人の自分になるにはどうしたらいいのか。これについて今回はいまだ甘えている学生の身分で考えていこうじゃないか。今回もただの凡人の戯言だと思って聞いてほしい。駄文だ。
<2階>自立を考えよう
自立というのを単純に他からの独立と意味づけるのは時期尚早だ。僕はそもそも自分という存在は他者から多くの影響を受けているという風に考えている。無論、それをすべて断ち切ってしまえば自分が自分でいることも難しいという風に考えている。それに関しては下の記事をご覧いただきたい。
自立というのは考えもので、文字ではこう書くもののそのままの意味では受け取ってはいけないのだ。
では、どうやってとらえていけばいいのか。ここからは僕の推論になる。ここで大事なのは「距離」であると考える。すなわち他者と自分との距離だ。
少し話はそれてしまうが、皆さんは「自分の時間」が欲しいとか、大切にしたいという風に考えたことはあるだろうか。たぶんあると思う。
社会というのはその形を保つ力も強いが人を拘束する力も強い。主に時間的な意味でもだ。そこから完全に解放されることは不可能に近い。それによって莫大なエネルギーも費やされる。
そこから自分自身を守ろうと考えることは必然である。そうして自分の時間を求めることは自立の小さな芽生えという風にとらえられるだろう。
その拘束力を弱めるのが距離であり、自立の完璧な完成なのだ。
<3階>なんか自立に「ジリツ」があるらしい
どうやら「自立」だけを考えてはいけないらしい。これはどういうことか。
自立以外に「自律」というものがあるらしい。読みは同じであるが意味合いがちょっと違ってくる。僕がこの「自律」を知ったのは大学でのことだった。
社会においては多様な人々が存在し、様々な意見が存在することは想像にたやすい。その中でその情報をかき集めて自分を形作るにはその断片を取捨選択することが大事らしい。これは様々な集団に属しているという状況で必要となる。例えば会社組織だろう。
ここで大事になるのが「自律」らしい。こっちのほうが大事に思うのは私だけだろうか。
端的に言えば「自立」と「自律」は「内」と「外」の関係に位置づけられる。つまり「自立」というのは単に外の周りの助けや干渉をあまり受けない状況のことで、「自律」というのは自分の内側でどういう判断を下せばいいのかを具体的に考え、その結果行動できるということを指す。
多人数の意見によって流されるというのは僕も経験してきたところだが、それを脱した状態、その違和感を言葉にする力というのがもう一つの「自律」の部分であるのだ。
しかしながら、何らかのバイアスに常に襲われる人間という生き物なので、克服には天文学的な時間がかかるだろう。
<4階>この世の全員が自立した世界
正直な話、社会に出たとしてもこういったジリツ達が完全にできることはないだろう。僕自身できるとは思えない。
だからこそ、人は一匹狼に憧れたり、巨大な権力に立ち向かう存在に極端に憧れたりするのかもしれない。これはまた別の文化論になるわけだが。
そもそも日本社会には常に「空気」が漂っている。これは大きな影響力を持ち、重要な意思決定にもかかわるまでの存在だ。
これに関してはまた別の機会に書くとして、もしそれを我々が克服し完璧な自立を一人一人が実現した社会が完成したとしたらどうなるだろうか。
まずもって社会の在り方は大きく変わることになると思う。社会の強大な維持力が完全になくなり、人々が共有してきた幻想ともいうべきものがまったくなくなる。
正直な話、現代はそういった力が徐々になくなってきている。人々が社会という単一なレイヤーではなく、多種多様なレイヤーを持ちつつあるからである。
とはいえそれは社会という大きな存在に限った話であり、小さな共同体単位ではいまだに維持力が働いている。
これは繰り返しの話であるが自分と他人というのが切り離せないものであるからだ。
僕に限った話で言えば、明確な自分というものをいまだにもっていないので、社会の維持力の恩恵を存分に授かっている状態だ。個が個として完全に生きる時代は人間が別の生命体に突然変異しない限り無理な話だろう。