<モーニングノート>と<Dysonの掃除機>と<耳掃除>について
「紙のノートを<パラパラ>めくる」という行為
毎朝Apple pencilでiPadに書いているモーニングノート。最近また紙のノートに書き始めた。
思考のゴミ(どうでもいいけど考えていること)出しとしてモーニングノートを書いている。たまに考えながら書くこともある。ダメダメ、考える(思考の構築)ために書くのではなく、考えてしまった(ゴミ)を書かなきゃ。(この辺の葛藤や攻防は経験者ならわかるとおもう。)
だから私はモーニングノートを読み返しはしなし。しかし気になる。書いた内容ではない。書き出した量が気になる。それを確認するのは紙のノートのほうがダンゼンいい。iPadでスクロースしてもいいが、おじさんにはゴミの物量が入ってこない。スクロールで見切れた瞬間に、この世からリアリティーが消える。紙のノートを「パラパラめくる」という行為は、実はすごく意味のあるように思えてきた今日このごろ。
捨てるものを見たい?
ゴミを見たいという考えは、私だけだろうか?
Dysonの掃除機がヒットしたのは、変わらない吸引力だけでなく、透明な容器にゴミが溜まっていく様子を見える化したことが大きいと思う。
子供の頃、母親に耳掃除をしてもらったとき、本来は耳が綺麗になればいいのに、自分の耳垢をあえて見たくなるのは何故?耳垢がデカイとテンションが上がるのは何!?
捨てるために吐き出した。なのに思考という実態のないものも含めて、その量や大きさが気になる。
捨て方が大切ということ? 捨てるという行為を楽しむ? んーよくわからん。