笑顔の隠れ蓑
もう年末に近づいてきましたが皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はといえば Twitter や Instagram で流れてくる忘年会の美味しそうな料理を見て悶え苦しんでいます。とはいえキリスト教が多くを占めるケニアではクリスマスに向けて日本と同じようにこんな小さな島でも浮き足立ったムードが少しずつ見えてきました。
僕は今、以前ビザランのためにいったウガンダで行った二つのインタビューの記事をまとめています。お二方とも十数年前に起こったウガンダ内戦を経験した方でした。そんな彼らの話を聞いて、そして今こうして記事を書いて、色々と感じることがあったので、noteに書くことにしました。
悲劇は涙をもたらすのか
最近よくtwitterを見ていて、TLをにぎわすのは伊藤詩織さんの判決の記事です。中には見ていて気分の悪くなるツイートもあり、その中の一つにあるのが「性被害にあった人はあんな風に振る舞わない」というものです。 トラウマ的な経験負った人々は笑顔になることもないし、自分の過去の経験を話したがらないという主張に基づいてこんなツイートを時々見かけます。
少し重なる部分もあったのでここに書くのですが、内戦を経験した方々にインタビューを行って僕は、悲劇が人にもたらすのは涙ではなく強がりの笑顔であると言うことを知りました。
二人とも「笑った」
僕はウガンダで二人の方にインタビューをしました。自分が生まれ育った土地を良くしようとまっすぐに頑張っている素敵な方たちでした。話を聞いていく中で、活動に関連して内戦の話も聞かせていただきました。
「夜は兵士に見つかって誘拐されないように、草むらの中に隠れて寝ていた。母さんは見つかるといけないからと言って、朝3時に起きてご飯の用意をしてくれた。草むらに戻る時、足跡や何か追跡の痕跡になるものが残るといけないから、来た道を草で隠しながら戻った。ずっと恐怖の中に生きていた気分だった。」
彼は草むらに戻る時の説明を英語でするのが難しかったのか、実際に体を動かしてジェスチャーで教えてくれた。僕は話を聞きながら実際の情景を想像して神妙な表情していたしていたかと思うけれど、それとは対照的に彼は笑顔を交えながら説明してくれた。
「僕はずっと苦しむ人々を見てきた。人が殺されるのも見たし、子どもが掴まれて木に叩きつけられて殺されるのも見た。沢山の人が傷つけられるのを見てきた。 」
そのあとに付け足して、”War is not easy, friend.” といって僕に笑いかけてきた。 僕は、自分が思い描いていた話の中の情景と、今目の前にある彼の素敵な笑顔のどちらが現実なのかわからなくなった。
本当にくるしいとき、人はきっと笑う
今こうして記事を書いていて分かったのは、人は苦しい記憶と向き合う時、きっと心では泣いていて、表では笑っているということ。僕はこの二人がどれほど苦しい経験したのか想像で補うことしかできない。たとえどれほど小さな子どもが樹に叩きつけられる情景を想像してもそれは彼から間接的にもらったもので、直接それを目にした本人の感情は量り知れない。誘拐される 恐怖に怯えながら草に囲まれて寒空の下で眠る恐怖なんてどれだけ想像しても僕には分からない。
本当にくるしい時、人はきっと笑うんじゃないか。それはきっと、苦しい現実を少しでも紛らわせるためのもので、人間の本能みたいなものなのかもしれない。
僕もそうやって苦しい経験を語る人に「何で辛いのに笑うのか」と聞いたことがある。今思えば愚の骨頂だ。 それはきっと、笑っている方が楽だから。
彼らはきっと誰よりも優しいと思う。誰よりも辛い経験をしているから。笑顔の裏に隠れた涙も、彼らはきっと見抜くと思う。
僕も彼らみたいに、優しくなれるだろうか。