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怪異と残業した話(小説)


わたしが初めて職場で不気味な老婆の笑い声を聞いたのは、繁忙期の夜9時、一人残って残業していた時だった。


その時は、ちょうどその日育休に入った先輩の事務仕事を引き継いだばかりで、慣れない作業にずっと戸惑っていた。

目や肩が限界を迎えたので、席を立ち、お手洗いに向かう。わたしの部署はフロアの真ん中あたりにあるが、左右の島にはいつのまにか誰もいなくなっていて、蛍光灯も消えている。

通路を挟んで向かいの島には蛍光灯がついているが、見たところ人の気配はない。


なんとなく心細い気持ちになりながら廊下に出て、非常灯のぼんやりとした明かりを頼りに、お手洗いに向かっている時ーーその声は聞こえてきた。

ヒッヒッヒッ......

最初は、鳥か何かが窓の外で鳴いているのかと思った。か細くて高い声だった。

イヒッヒッヒッヒッヒッヒッ......

だがその声はだんだんと大きくなってきた。

わたしは薄暗い廊下で足を止め、音のした方に目をやる。

エレベーターホールの一角、トイレとオフィスのちょうど昼間くらいの場所に、扉が開け放たれた小部屋があった。

そこは各部署の色々な備品が雑然と積まれた倉庫で、鍵が壊れているため普段から開けっぱなしになっていた。

ヒッヒッヒッヒッ......イッヒッヒッヒ……



近づいてみると、その声はしゃがれた老婆の笑い声に聞こえた。

わたしは首を傾げた。こんな時間に倉庫で作業をする人など、いないはずだ。仮に作業しているなら、電気をつけるはずだ。

だが部屋は蛍光灯もついていないし、窓もないから月明かりが差し込むなんてこともない。真っ暗だ。

「だ、誰かいるんですか......?」
わたしは恐る恐る、倉庫に近づきながら声をかける。

このビルの入り口は今の時間、カード認証式の社員用入り口をのぞいて施錠されている。

だから外から誰も入れないし、定時になると守衛が見回ってから施錠をしている。しかもここは5階、不審者が入り込むことはないはず。

首を傾げながら倉庫の前に立った、その時だった。

イヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケハハハハハハハハハハハハハハハハハ!



人間の声量とは思えない、けたたましい笑い声が、倉庫の闇の奥から聞こえてきて、わたしは驚いて飛びのいた。

そのまま、倉庫に背を向け無我夢中でオフィスに向かって走り出す。


「わっ、びっくりした! あれ、香澄サンじゃない。どうしたの、そんな慌てて」

オフィスの入り口あたりで、髪の長い女性とぶつかりそうになる。同期入社で大学も学部も同じ、霜鳥だった。

彼女のデスクはわたしのデスクと通路を挟んで反対側、つまり反対側の島で残っていたのは彼女だったようだ。

「し、霜鳥さん、そ、倉庫から……」
「倉庫? 倉庫がどうかしたの?」
霜鳥は首を傾げた。

「こ、声が……笑い声がして。聞こえなかった?」
「え、いや……てか大丈夫? 手震えてるけど低血糖じゃない? チョコボールあるからあげるよ」

わたしが二の句を継ぐ前に、彼女は自分のデスクにスタスタと向かった。引き出しからチョコボールの箱を取り出戻ってくる。

「はい、どうぞ」
わたしの開いた口にチョコボールを放り込んだ。慌てて口を閉じると、チョコとピーナッツの甘い香り。

「落ち着いた?」
霜鳥は、わたしに通路に置かれたパイプ椅子を勧めると、自分も座ってチョコボールを食べ始めた。

「……いや落ち着けるわけないじゃない! 誰もいないはずの倉庫から笑い声が」
「本当に誰もいないか、確認した?」
「それは……」
「見てこようか」

そういうと彼女は立ち上がり、スタスタと倉庫の方へ歩いて行った。


大学の頃からずっとこんな感じだから、わたしは彼女が正直言って苦手だ。よく言えばサバサバしている、悪く言えば何事もアッサリしすぎている。

そのくせ変なこだわりがあって、自分を全然曲げようとしない。


「電気つけて中を見たけど、誰もいなかったよ。いた形跡もない。階段かエレベーターで別の階に逃げたなら音とかでわかるはずだから、誰か潜んでて逃げたのでもなさそう」

戻ってきた霜鳥は淡々と報告した。わたしは血の気が引くのを感じた。

「えっじゃあ、あの声は何だったの? 幽霊か何かってこと? このビルで何か出るって噂なんて聞いたことないのに……」

「幽霊か、それは違うんじゃないかな」

冷静な霜鳥の声に、わたしは顔を上げた。


「幽霊っていうのは、『死んだ人間』が化けて出るってことだけど、まだ笑い声の正体が人間かどうかわからないでしょ? 人間に限らず不可解な現象だと言いたいなら『妖怪』が適切なんじゃない?」


……わけのわからないところにこだわる霜鳥に、わたしは気が遠くなりかけた。



👻 👻 👻



「仕方ない」というのが、わたしの上司の口癖だった。

『さっき本社から電話があって納期はそのままで
仕様変更してほしいって……』
『本社がそういうなら仕方ないな』
『そうですね』

上司だけではない、部署の中にはある種の諦めというか、自分たちではどうにもならないことへの開き直りのようなムードがあった。

わたし以外皆、子育てや介護で何かと忙しく、波風を立てたくないというのもあるのかもしれない。

「それで? 香澄サンに仕事が偏ってるのも、『仕方がない』で処理されているってわけ?」
「……課長は、本社が育休や時短の社員の補充要員を配置してくれない言ってたけど」
「でもうちの課は時短の人の代わりに一人ついたけどなあ。上司の政治力もあるのかな」

霜鳥はそういうと、わたしの隣の席に勝手に座ると、チョコボールを一つ食べた。


夜遅くまで残っているとき、2日に1回くらいのペースで彼女と一緒になった。データ処理中は暇だから、とよくわたしのデスクまで冷やかしに来た。誰もいないよりはマシだ。


「妖怪」の声を始めて聞いて以来、残業をするのも少し心細くなっていた。

あれ以来、倉庫の前を通るとき、毎回聞こえるわけではないが、時折か細い笑い声を耳にするようになった。

倉庫の前を通るときは息を潜めて素早く通り過ぎているからか、けたたましい笑い声はあれ以来聞いていない。

守衛に「倉庫から変な声がするからちゃんと見回ってくれ」と相談したことがあったが、「はあ、気をつけてみます」と気の抜けた返事を返されただけだった。

一度勇気を出して、笑い声がする最中に電気のスイッチを入れたことがあったがーー雑然と備品が詰め込まれていただけで誰もおらず、余計に怖くなった。

トイレの横には自販機コーナーがあって、遅くまで残ったときはそこでコーヒーを飲んで休憩していたが、そのこともあって足が遠のいてしまった。

だから霜鳥がデスクまで来て話しかけてくれるのを、密かにありがたいと感じるようになっていた。チョコボールをやたら勧められるのには、困るけど。


「補充要員が来てるなら、霜鳥さんはなんでいつも遅くまで残業してるの?」

霜鳥は同じグループで同じ事務職だが、仕事はだいぶ違う。彼女曰く労務管理のデータ集計のやり方を効率化している、という話だったが、効率化のために遅くまで残業するのも本末転倒な気がする。

「課長が細かくてさ。色々改善してもダメ出し喰らいまくるから、結局修正対応してたらこんな時間になるわけ……しまった切らしちゃった」

霜鳥は手に持っている箱が空になったことに気づくと顔を顰めた。

「そういえば、チョコボール、自販機コーナーに置いてあったよ」
「嘘、いつの間に!? 買いに行こうかな。一緒に行く?」
「あ〜、わたしは……」

倉庫の前を通るのが怖い、というのを口に出すのが嫌で、わたしは口ごもった。

「例の妖怪が出ても、一人より二人でいた方が怖くないんじゃない?」

見透かされてた。

「ホラー映画でも一人になった人から死んでいくし、こういうときは一緒にいてたほうがいいよ」
「……例えが最悪すぎでしょ」

わたしはため息をつくと、席を立った。連れ立って廊下を歩く。

倉庫の前をそうっと通り過ぎるが、何も起きない。わたしはほっと胸を撫で下ろす。


「あ、本当だチョコボールある! うわあ嬉しいなあ……先週まではなかったのに」

自販機コーナーに着くなり、霜鳥が弾んだ声を出した。わたしもその隣で、お気に入りの缶コーヒーのボタンに手を伸ばす。

自販機から出てきたばかりの缶は熱くてまともに飲めない。隅に1つだけあるテーブルに缶コーヒーを乗せると、霜鳥もその隣にチョコボールの箱を置いた。

「残業してていいことなんて、上司がいない中静かに作業できることと、堂々とサボれることくらいだからね」
「……それについては、同意するわ」

わたしはプルタブを開けてコーヒーを一口飲む。数週間ぶりに飲む、いつもの味。思わず視界が霞む。眼精疲労が酷すぎるせいか、目頭に涙が溜まってうまく流れないことがよくあった。

「にしてもあの変な声……本当に妖怪なのかな」

わたしが何気なく言うと、霜鳥は急に真面目な顔になった。妖怪の話になると彼女は本気になる節がある。

「前も言ったけど、妖怪は幽霊とかも含む、不可解なものを指すから、妖怪だよ」
「残業してたら暗闇から不気味な声が聞こえてくるから怖い、って香澄サンが思った時点で、妖怪は成立してるともいえる」

「『子泣き爺』みたいな名前も何もないし、わたししか聞いた人いないみたいだけど」
「名前なんて自分でつけちゃえばいいじゃない」
「……妖怪『高笑い婆』とか?」

そういうと、霜鳥は愉快そうに笑った。
「アハハ、いいね、その名前。それっぽい」

イヒヒヒヒヒ………

その時、霜鳥の笑い声に釣られたように、廊下の反対側から笑い声が聞こえてきた。

「ヒッ」
わたしは小さく悲鳴を上げた。今度は霜鳥にも聞こえたのか、彼女も倉庫の方を見ている。

二人して身を固くしていると、笑い声はフェードアウトするように小さくなり、やがて聞こえなくなった。

「もう、何なの……さっき通った時は何もなかったのに」
「法則性というか、何曜日に聞こえるとか、何をしたら笑うとかもないんだ?」
「うん……もう帰ろうかな……何だか集中できないし」


その後、わたしは逃げるように職場を出たが、その日を境に、霜鳥と一緒に残っている日もそうでない日もーーオフィスやトイレの個室の中まで聞こえる大きな声で、高笑い婆は笑うようになった。


🧙‍♀️ 🧙‍♀️ 🧙‍♀️‍


そんな日々が続いたある晩、いつもの如くひとり残業をしている霜鳥のところに行くと、彼女の机の上にドン、と口が広く背が低いガラス瓶を置いた。

「……何、これ」

「元彼からもらったバスソルト。体質に合わないみたいで全然使ってなかったから……これは百均で買ったはたき」

呆気にとられる霜鳥の前で、わたしはナイロン製のペラペラのはたきをパタパタさせた。

「いやバスソルトとはたきなのはわかるんだけど。なんでこんなものを持ってきたの?」

「退治しようと思って」

「へっ?」

「妖怪だかなんだか知らないけど、ただでさえやりたくもない残業をしててしんどいのに、暗がりから脅かしてくるなんて、随分卑怯じゃない。盛り塩とかじゃないから効くかわからないけど、投げつけたら驚いて逃げるかなって」

声が震えて、裏返りそうになるのを抑えながら、わたしは言った。また涙で、視界が霞む。

霜鳥は困惑したように、わたしの顔と机に置かれた小洒落たガラス瓶を交互に見ていた。

「……その、はたきは?」

「神社の神主さんが振ってるあれに似てるから」

一人暮らしの女の家に、お札などあるわけない。塩以外で妖怪に効きそうなものはこれしか思いつかなかった。

「ひょっとして大幣おおぬさの話してる?」

「……あれオオヌサって言うんだ。とにかく、妖怪高笑い婆をこっちから脅かしてやろうと思って!」


そう言うとわたしは、バスソルトの瓶とはたき、霜鳥を掴んで例の倉庫の前まで引っ張って行った。

「香澄サン、変なとこで思い切りがいいよね……」
「警備員に言ってもあしらわれるし、かと言って残業がなくなるわけじゃないし……自分たちでなんとかするしかないじゃない」
「その自分『たち』にあたしも入ってるわけね」

イヒヒヒヒ……

開け放たれた扉の向こう、廊下の非常灯も届かない暗がりの中から笑い声が聞こえてきた。高笑い婆だ。

わたしたちが倉庫の前にいることを知ってか知らずか、いつもより甲高く、耳障りな声だ。

わたしは霜鳥にはたきを押し付け、バスソルトの瓶の蓋を開くと、左手に瓶を持った。ガクガクと震える足を無理矢理動かし、一歩、倉庫の闇の中に足を踏み入れる。

ヒヒヒヒヒヒ……

ケケケケケケケケケ……

ハハハハハハハハハハハハ……


倉庫の奥に近づくにつれ、高笑い婆の声が一層大きくなる。

わたしは大きく息を吸って、吐いた。瓶の中に手を突っ込み、塩を掴むと、闇に向かって投げつける。

おりゃあああ!!

高笑いが一瞬止んだ後、ギャッ、という怪鳥の鳴き声のような悲鳴が聞こえてきた。

「き、効いてる? もういっちょ」

わたしは節分の豆まきの要領で右手を振りかぶり、瓶の中のバスソルトをあたりに撒き散らした。笑い声は苦しそうな呻き声に変わっていく。

「霜鳥さんも、ほら、なんか、なんでもいいから呪文とか唱えてよ!!」

「ええ……」

後ろでぼんやりとはたきを握りしめていた霜鳥を睨むと、彼女はヤケクソ気味にはたきを振り回して、ぶつぶつ呪文を唱え出した。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前……えーっと、妖怪よ退散せよ!」

瓶に残った塩を直接ぶちまけながら、わたしも声を合わせた。

「退散せよ!!」


ギャアアアアアアアアアアアアアア……


塩と呪文が効いたのか、はたまた勢いに押されたのか、高笑い婆の声は、断末魔のような叫び声を最後に、聞こえなくなった。


「ハア、ハアッ……」

「……なんだかよくわからないけど、いなくなったみたいね」

わたしと霜鳥は、大きく息を吸って吐くと、その場にへたり込んだ。

倉庫の床はひんやりとしていて、熱を持った身体にはその感覚が心地いい。床に散らばった塩の粒が、ストッキングを履いた脚に食い込んで、痛い。


妖怪が出る倉庫は、元の、暗くて散らかった倉庫に戻った。

わたしと霜鳥は、数分後、「ギャアアってものすごい悲鳴が聞こえてきたけどどうしたんだ!?」と警備員がやってくるまで、ぼんやりと倉庫の中に座り込んでいた。


🧂 🧂 🧂

それからのことは、あまりよく覚えていない。

仕事の割り振りを見直して欲しいと上司に相談して、それでも改善されなくて本社の人事担当に直談判して、それからすぐ異動になって……とゴタゴタしていたせいで、しばらく霜鳥と話す機会もなかった。

彼女と話したのはつい最近、異動先の業務用携帯にかかってきた電話越しでだ。

彼女はあれでも、わたしのことを心配してくれていたらしい。今の部署は残業もそれほど多くなく平和だと話したら、ほっとしていた。


「そういえばまだ出るの? 妖怪高笑い婆」
『ああ、そういえばあれから全然声聞かないね。退治できてたのかな』

「……今思えば、あれは残業でハイになって聞いた幻聴な気がするな」

『幻覚なわけないよ。一緒にいたあたしも聞いたんだし。幻覚だとしたら塩を投げつけた時の断末魔で警備員さんが駆けつけてきたのをどう説明するのよ』

立板に水が流れるようにすらすらと反論した後、それに、と彼女は続けた。

『それに次の日、あの倉庫に入る用事があって、塩を撒き散らしたあたりを見たら、白くて長い髪の毛が落ちてて、触ったらふっと、手の上で雪が溶けるみたいに消えちゃったの』

「え、待って、普通のトーンで言わないでよ怖い」

『だからあれは、絶対妖怪なんだって』

そう言う霜鳥の真面目な口調に、わたしは思わず笑ってしまった。つられて霜鳥も笑う。


「そっちはどう? 忙しくなければ、今度ご飯行こうよ」
『ぼちぼち。でもご飯行くなら早く終わらせて行くよ』
「本当? じゃあ店探すね」
『うん、ありがとう』

そう答える霜鳥の声は、電話越しでも弾んでいるように聞こえた。


電話を切った後、わたしは霜鳥の番号を「残業仲間」と電話帳に登録した。

窓の外に目をやると、定時を待たずに太陽が沈もうとしていた。これでも陽が長くなった方だな、と思いながら、仕事に戻った。


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お化けには会社も仕事も何もないらしい。早く妖怪になりたい(とらつぐみ・鵺)