ノン・アサーティブ・ストーカー(小説)
職場の同僚、八津瑠璃香に盗聴されていることに気づいたのは、4月の初め、湿度が高くてやたらと暑い晩のことだった。
社宅のワンルームの部屋。玄関入ってすぐ、下駄箱の下あたりにある、何に使うのかよくわからない(のであまり使っていない)コンセントに、見慣れないコンセントタップがついていた。
それを見つけた私は、防災用にと最近買った小型ラジオの電源をつけ、そこに近づけてみた。案の定、電波は乱れノイズが入った。典型的なコンセント型盗聴器だ。
コンセントは他にもあるのに、普段あまり抜き差ししない場所を狙った、狡猾なやり口。
頭が沸騰するような怒りと同時に、つい最近、この家の玄関先で不審な動きをしていた人間のことが頭に浮かんだ。
それが職場の隣の部署にいる採用2年目の同期で、同じ社宅に住んでいる瑠璃香だった。
瑠璃香はーーこう言っては何だがあまり気が合うタイプの人間ではない。朝に挨拶をしても全然返してくれないし、仕事中は一言も喋らず、昼休みはずっと音楽を聞いている。
その割に時々「水嶋さんってパイナップル好きなんですか」とか、変なことを変なタイミングで話しかけてくる。
私が隣の席の先輩と雑談しているのを盗み聞きしているのか、と思っていたが、最近「わたしもセ◯ンヌの下地使ってますよ」と言ってきたのでおかしいと気づいた。
隣の席の先輩は男で、化粧下地の銘柄まで話すわけないのに。
変なことを言ってくるようになったのは今年の2月ごろーースーパーの帰り道、社宅のエントランスでたまたま会ったとき以来だ。
最初はエントランスで何となく立ち話をしていた。その日はやたら暑く、耐えきれず近所のスーパーでアイスを買ったから、一刻も早く部屋に上がりたかった。
けれど瑠璃香の取り留めもない話は全然終わらなかった。こちらも多少気を使って、話を合わせたのがよくなかったのだろう。話すうちに瑠璃香はどんどん興奮してきたようだった。
わたしはどうしてもアイスがとけてしまうのが嫌で、無理矢理話を切り上げてエレベーターに乗り込んだ。
が、何故か瑠璃香も--どうでもいいことを一方的にまくしたてながら、わたしの部屋までついてきてしまった。
玄関先でずっと喋らせておくわけにも行かないから、仕方なく玄関の中には入れた。
他にも荷物はあったがとりあえずアイスを冷凍庫に放り込んだとき、瑠璃香が下駄箱の下を覗き込むような動きをしていることに気づいた。
「...…あの時か」
私は盗聴器を見つけてすぐ、玄関から一番遠い場所、つまりベランダの外に出るとため息をついた。
いくら狭い部屋でもここなら音を拾わないだろう。逆にいえば、キッチンで料理をしながら友達と通話していた時の声なんかは筒抜けだったわけだが。
最悪。23年生きてきていちばん最悪かもしれない。大学の頃一瞬だけいた彼氏に浮気された時より最悪かもしれない。盗聴って趣味悪すぎでしょ。それも同期の女の部屋に仕掛けて...…何が楽しいんだ??
推理モードで一瞬おさまっていた怒りが再びふつふつと湧き上がってきた。
ダメダメ。木刀を持って殴り込みに行こうとか思っては。怒りは6秒我慢しなきゃだめなのよ、怜。この前買った本に書いてあったじゃない、アンガー・マネジメント。人を殴る前に6秒我慢しなきゃだめよ...…
わたしは大きく深呼吸をする。都会の空気は排ガスまみれで何となく臭い。余計に不快度が増した。
そういえば、その本に我慢ばっかりではダメみたいなことも書いてあったな...…たしか、「アサーティブ・コミュニケーション」とかいうやつ。攻撃的にならず、かつ我慢しちゃうこともなく自分の意見を伝える的な。
わたしはベランダからリビングに戻ると、本棚からその本を引っ張り出した。
相手を尊重しようにも、相手の方からプライバシーを侵害してきているのになあ...…
小難しくなってきた。まずそんな話ができるくらいコミュニケーションが取れる相手なら苦労してないよ...…
わたしは一つため息をついた。率直に感情を伝えること、ねえ...…
わたしは玄関に向かい、下駄箱の下を覗き込んだ。小さなコンセントタップに向かって話しかける。
「あー...…八津さんでしょ、これ仕掛けたの。聞こえてる?」
こんな感じでいいのか? と首を傾げながらわたしは続けた。聞いているのかはわからないが、言いたいことはとりあえず言わなければならない。
「あなたが今やってることは、盗聴よね。たしか電波法か何かに違反してるはずだし、わたしのプライバシーも侵害している。ここまでは、事実よね」
「ここからは、わたしの気持ち。盗聴されっぱなしで、わたしがどんな気持ちなのかわからないままなのも癪だし、言わせてもらうわね」
ここで大きく深呼吸。感情を抑えて、あくまで淡々と。
「率直に言って、気持ち悪い」
「仕掛けた人が誰かわからないなら『怖い』ってなるけど、知り合いに仕掛けられたっていうのは普通に気持ち悪い」
「それに、困惑もしてる。なんでこんなことするの? わたしの私生活を知って、いったいどうしたいわけ?」
彼女も「どうしたいわけ?」と言われても困るだろうな、と妙に冷静な頭で考えた。でも言葉は止まらない。
「だいたい、何か聞きたいことがあるなら職場で聞けばいいじゃない」
「いっつもこっちが話しかけても生返事で...…そのくせ、この前エントランスで会った時はどうでもいい話をダラダラダラダラと...…」
「わたしは、あなたが同じフロアにいる唯一の同期だから、仲良くしたいって以上のことは思ってないからね」
そこまで一気に言い切ると、わたしは肩で息をした。
「...…もう耳塞いで、聞いてないかもしれないけど。こっちが言いたいこと言って、もしそっちが泣いてたりしたら、こっちがいじめたみたいで腹立つから、反論の機会あげるわ」
「というか何で盗聴器仕掛けたのかわからないままなのは嫌だから、そこだけでも聞かせて欲しい。昼休み...…いつもはデスクで食べてるけど食堂にいるから、何か言いたいことあればそこまで来て。じゃあね」
わたしはそういうと、手に力をこめて、コンセント型盗聴器を引っこ抜いた。
🍛 🍛 🍛
「ここ...…座っていいっすか」
その翌日、社食の一番奥のテーブルでひとりカレーを食べていたら、話しかけられた。八津瑠璃香だ。
「.........…どうぞ」
わたしはつとめて嫌そうな声色でそう言った。八津はぺこりと頭を下げ、わたしの正面に座る。
この時のわたしはきっと、「どの面下げてここに」と「アサーティブ・コミュニケーションすげえ」が入り混じった表情をしていたに違いない。
「...…ここに座ったってことは、『自白』しに来たってことでいいんだよね」
わたしの言葉に、瑠璃香は黙って頷いた。
今日の彼女は、というか毎日そうだが、淡い色の襟付きシャツにカーディガン、ウェーブのかかった黒い髪を胸の前におろしていた。前髪が長く、俯き加減で、表情がよくわからないのもいつも通りだ。
「.........…」
「.........…」
わたしはあえてそれ以上何も言わず、かといって瑠璃香も何かいうわけではない。無言でうどんを食べている。いやというかこの状況でよくご飯食べれるな。
わたしもスプーンをカチャカチャと動かし、忙しなくカレーをかき込む。それを見た瑠璃香も、ズルズルズル……と大きな音を立ててうどんをすする。いやそこ対抗するか普通!?
何なら1人の時よりご飯を早く食べ終わった後、紙ナプキンで口元を拭った瑠璃香が口火を切る。
「水嶋さんって、辛いの平気なんですか。水も飲まずに完食してたから……ここのカレー、結構辛くないですか?」
「今のこの状況で、味を感じる余裕あるほど、神経図太くないけど」
「辛味って味覚じゃなくて痛覚らしいですよ」
空になったトレイと皿をぶつけたくなった右手を左手で押さえつけ、深呼吸。6秒ルール、6秒ルール。
「……あんなものを仕掛けたのは、わたしがはじめて?」
きっかり6秒待ってから、わたしは口を開いた。
「はい。もの自体は前に興味本位で買って、でも使うとこないなあと……盗聴してまでして、その人のことを知りたいと思える人に、出会えなかったというのもあり……」
「じゃあやっぱり、わたしのことが知りたいっていうのが仕掛けた動機なわけね」
色々湧き上がってくる言葉を飲み込み、瑠璃香の言葉を待った。
「はい……水嶋さんって、誰に対しても優しいというか、朝なんていつも笑顔で挨拶してて。それでいて同期とは思えないくらい仕事もできるし、私みたいなのにも話しかけてくれるし。それでいて残業中に時々見せる物憂げな顔とか……あっ今のそのポーズ。肘ついて眉間に皺寄せてる姿とか見ると、もともとの性格とかよりは努力して人当たりよくしてて、実際は家で『はーーー人間関係マジめんどいな』とか言ってたりするのかなと思うと興味深くて。そう思って盗聴器仕掛けたらお友達との通話でまさに同じこと言っててうわすごい、解釈一致だなって。先輩に雑談ふられたら話すけど、自分の個人情報はあまり話さないあたりも、ほんとは他人のこと信用してないんだなって。それでいてうまいこと話は合わせていて。私なんて話しかけられてもパッと言葉が出てこないし、会話が続かなくて職場で浮いてるのに、そのコミュ力が羨ましすぎるなって。でもコミュ力すごいですねなんて話しかけたら変だし、何か雑談をと思っても共通点なんて使ってる化粧下地の種類くらいしかないし。あ、化粧品といえば……」
「もう、わかったから。わかったから」
瑠璃香はきょとんとした顔で黙った。
「……盗聴器、今まだ家にあるんだけど、今日仕事終わった後、回収して、二度とわたしの前に、現れないでくれるかな」
「でも……」
「今のあなたに、選択肢があると、思わないでほしいんだけど」
攻撃的にもならず、相手に自分の意思を伝えるなんて、やっぱり無理だったんだ。
わたしは深く深くため息をついた。
🏠 🏠 🏠
その日はとても残業する気になれず、定時で職場を後にした。電車に乗り、社宅への道をとぼとぼと歩く。
「えっ」
社宅のエントランスで、瑠璃香が待っていた。
……いや、定時で上がったのになんで先回りされてるんだ?
不気味に思いながらエレベーターに乗り込むと、また瑠璃香がついてきた。いや、だからなんで来るんだよ。
そのまま部屋の前まで来た彼女に、わたしは怒る気も失せ、無言で玄関ドアを開け、下駄箱の上に放置していた盗聴器を掴んだ。
「……はい。これ持ってさっさと帰って」
「あ、あの」
「何?」
「もうここには来ないから……ここから引っ越して実家から通うことにしたの。だから……」
「だから、何?」
「……部屋の中、見せてくれない?」
「……………………」
呆れて言葉が出ないというのはこんな感じなのか。
もうどうにでもなれというヤケクソめいた気持ちが込み上げてくる。
「それで二度と来ないんだったら、どうぞ。好きなだけ見てってよ」
わたしは玄関のドアを開けた。
玄関のすぐ先には狭いキッチンがあり、冷蔵庫とレンジがある。その向こうにあるリビングに続く引き戸を開ける。
「…………え?」
瑠璃香は、リビングの壁に沿って立てられた木の板を見ると、素っ頓狂な声を上げたきり、固まった。
その板には、浮気した元カレ、学生時代わたしを揶揄ってきた同級生、上司や同じ部署の先輩たちの写真が何枚か貼ってあるーーもちろん、瑠璃香の写真もある。
「何、これ……」
「実家の倉庫にたまたまあったダーツボードを改造して作ったの。社宅の壁に穴開けたら迷惑かかるでしょ」
「いや、これ、写真に刺さってるの、矢……? これはナイフの痕……?」
「これはダーツの矢。こっちは手裏剣の痕。大学の頃はクロスボウも持ってたけど、違法になってからは捨てた。ここにあるのは、合法のものだけだよ」
「え、あ……じゃあこれは?」
瑠璃香は床に落ちているビニールの塊を怯えたような顔で見つめた。
「空気を入れて膨らますタイプのサンドバッグ? みたいなやつ。自立型で、殴っても立ち上がってくるやつ」
「なんでこんなシワシワに……」
「木刀で殴ってたら、穴空いちゃったみたい。今では粗大ゴミ」
わたしはそう言うと、床に転がっていた木刀を足でどけた。その横に転がっていた、まだ残っているセ◯ンヌの下地を拾い上げ、ゴミ箱に放り投げた。カラン、という軽い音が狭い部屋に響く。
「…………」
わたしは、顔の真ん中に手裏剣が突き刺さった瑠璃香の写真を板から外し、ビリビリにしてゴミ箱に捨てた。
「どう? これで満足した? 盗聴したくなるほど憧れてた女の部屋が、こんなので」
「…………お邪魔、しました」
瑠璃香は、いつものように表情が見えないように俯くと、逃げるようにわたしの部屋を後にした。
そして、二度と社宅はおろか、職場にも、姿を見せなかった。
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色々と、良い子も悪い子も真似しないでください。カバー画像は「ビジネス自己啓発書のカリスマ」虎田嗣美先生の本の書影です(とらつぐみ・鵺)
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