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鳥好き探偵と剥製屋敷の怪・前編(小説)

鵲探偵事務所にとあるパーティの招待状が届いたのは、蒸し風呂のような気温の中浮気調査をしていた、8月の終わりのことだった。

差出人は、推理小説の大家で知られる大鷲春男氏。新作小説の発売記念パーティを行うらしい。前に一度、探偵監修の依頼を引き受けた縁で送ってきたようだった。

(探偵監修とは何なのかよくわからないが、探偵が出てくる小説の原稿が送られてきたので「貧乏な探偵は家賃を払うのにも困っているので葉巻は吸わない、せめてマルボロ」と書いて送り返したら、後日目玉が飛び出る額の謝礼が振り込まれていた。)

探偵事務所、とは名ばかりの貸しビルの一室の中で、かささぎ徒歩かちは封筒を開封した。

パーティの時期はシギチが渡ってくるハイシーズン、10月の初め。場所は大鷲氏の邸宅。住所は...…地図を見ると別荘地の、かなり奥深くにある。航空写真を見る限りかなり大きい家だ。“屋敷”という言葉がしっくり来る。

「...…思ったより不便なところにあるな。迎えの車が来るとは書いてあるが」

鵲は、仕事以上に人付き合いや社交の場を億劫と思う性質だった。

立食パーティーで小鳥の餌のような量の飯をつまみ、餌付けされてホイホイ寄ってくるカルガモよりもつまらない連中と話して時間を浪費するぐらいなら、野山や河口に出向いて鳥を見たほうがよっぽど生産的だ。

鵲は封筒ごとゴミ箱に放り込もうとして、手を止める。洋形封筒の中には、招待状の他にL版の写真が入っていた。

屋敷の階段だろうか、ワイングラス片手に笑顔の男。文芸雑誌のインタビューか何かで見たことがある顔だからこれが大鷲氏だろう。彼の後ろ、階段脇に置かれたケースの中に、大きなワシの剥製があった。

トビよりも遥かに大きい身体。大きな黄色い嘴に、黒と白の羽。おそらくオオワシだろう。

オオワシは日本最大の猛禽で、冬になると北から渡ってくる。北海道などでは流氷に乗ったオオワシを写真に収めるのが人気だ。最近ではぐっと数を減らしている、貴重な鳥だ。そんな鳥の剥製がなぜ、ミステリ作家の屋敷に。

「...…...…」

好奇心ほど厄介なものはない。これに負けて、あらゆる名探偵は陸の孤島に閉じ込められてきた。鵲の場合、閉じ込められなくてもパーティの最中は死んだような顔をしているに違いない。


だが悩んだ末、彼は同封されていた返信用葉書の「参加」の文字に丸をつけた。


パーティの当日、鵲は一番小綺麗なスーツを指定された集合場所に向かった。駅前のロータリーに集まったそれらしき集団の中に、鵲は気配を消して紛れ込む(金持ちは送迎のハイヤーには乗らないだろうから、都内から向かう一団は勤め人と言った風情だ)。

「お兄さんも大鷲先生のパーティですか」

その時、白いスーツを着た小太りで眼鏡の男性に声をかけられた。何弁かまではわからないが関西弁のようなアクセントだ。

「いやー、パーティなんて久々ですわ。先生には何度か医療監修をお願いされて、リモートでお話したことはあるけどお屋敷に招待されたことはあらへんし。えらい緊張しますわ」

関西弁の男は白原と名乗った。都内のクリニックに勤務しているという。時計や鞄はブランドもののようだが、彼曰くそこまで高くはないという。ただし眼鏡のフレームにはこだわっているらしい。

彼の弾丸のようなおしゃべりを聞いているうちに、迎えの車がやってきた。黒塗りのハイエースが2台。

そこから約2時間、白原の家族構成から学生時代の面白エピソードまで一通り聞いたところで、大鷲氏の屋敷に着いた。

鵲は車酔いでヘロヘロになりながら立派な正門をくぐる。途中の道が相当な悪路で、車に乗っているだけで疲れてしまった。


中に入ってまず驚いたのは、玄関ホールの広さだ。玄関だけで、探偵事務所と同じくらいの広さがある。ホールの招待客はそこで受付を済ませ、左手にある大階段を上っていく。

大階段の反対側、右手には広々とした食堂があり、今日はパーティの参加者に振る舞う飲食物が整然と並べられていた。キッチンを仕切っている壮年の女性は、大鷲氏の妻の那津だ。彼女が出版した料理本を買ったことがある。

階段を上った先の広間にはテーブルがずらりと並んでいて、あちこちで談笑する人々の姿がある。ざっと50人ほどだろうか。振り向くと階段の傍に例のオオワシの剥製があった。

「おお、こんなんがあるんやな。大鷲先生のお屋敷やから、ワシの剥製か。ダジャレにしては捻りあらへんな」

いつのまにか隣にいた白原が、シャンパングラスをぐいっと傾けながらそう言った。おつまみのカナッペもちゃっかり手に持っている。

「この剥製が写っている写真、招待状に入ってませんでした?」
「いや? 招待状以外には、大鷲先生の直筆っぽいメッセージカードがありましたけど...…『お世話になったお礼をぜひしたい』って。そんなんわざわざ書かれたら、行かざるを得んやないですか」
「人によって招待状への同封物を変えているのか、手間のかかることをするなあ」

鵲はケースの前に立つと、穴があくほどオオワシの剥製を見つめた。

その剥製は本剥製(生前の姿を再現した、展示等に用いるタイプの剥製)で、翼を畳んだ状態で鎮座していた。カビや虫食い跡がなく、かなり状態がいい。

オオワシは全体的に暗褐色の羽をしていて、翼を畳むと肩を覆う白い羽が目立ち、まるで雪が積もったように見える。この剥製の個体は額がやや明るい色で、肩羽の周りに白い斑点が残っている。これは若鳥の特徴だ。

鮮やかな黄色で立派な嘴に、暗い羽毛の中で静かに輝く目。同封されていた写真の日付は1998年とあり、30年近くここにあるはずだ。だがそのケースの中だけ時間が止まっているかのようだ。

「随分熱心に見ているけど、ひょっとして君、鳥が好きなのかい? うちの庭によく小鳥がやってくるらしいから見て帰るといい」

ルリビタキとか言ったかな、と鵲に声をかけたのは、高級スーツに身を包んだ白髪の男ーーこの屋敷の主人、大鷲春男だ。

「何故こんな立派な剥製が、うちの屋敷にあると思う?」
「...…オオワシの剥製がある大鷲屋敷。捻りがない駄洒落ですか?」
「そんなわけないでしょう。何か理由がおありなんですよ」

鵲の全く遠慮のない言葉に白原は少し気まずそうな顔で付け足した。だが当の大鷲は全く気にしていない様子だ。

「うん。この屋敷、もとはとある金持ちの男の屋敷でね。その男の家は資産家の一族だったんだが浪費癖があってーー家の中に小さなホールを拵えて楽団を呼んだり、酒池肉林の宴を開いたりと、大層な暮らしぶりだったそうな」

「その男は北海道にも別荘を持っていて、近くにある林の中で息絶えていたワシを見つけた。外傷があるわけでもない、若いワシだった」

大鷲はグラスに入った赤ワインの水面を見つめながら話していた。まるで独り言のような彼の言葉は続く。

「彼は知り合いの獣医のところに持ち込んで死因を調べさせたが、はっきりとした死因はわからなかったそうだ。一見すると衰弱死に見えたが、胃の中には消化途中の獣の肉があったらしく、餓死ではなさそうだった」

「男は奇妙なワシの死体にいたく心を奪われたらしく、持ち帰って剝製師に造らせたのがこの剝製だ。それから男は、誰にも会わず屋敷に引きこもりがちになったらしい。人が変わってしまったようにね。その後一人寂しく病死したらしい。」

「人が変わってしまった……」

「私が思うに、彼は“謎の死を遂げたワシ”というものに、魅せられてしまったんじゃないだろうか。謎というのは魅力的だが、前向きなものではない。過去にとらわれているようなものだからな」

普通の金持ちとは違う、どこか浮世離れした雰囲気を纏った初老の男は、なんとも言えない顔をする二人の客に気づき、少し破顔した。

「だがいわくつきの剥製も、ミステリ作家の自宅にある分には問題ないだろう。作家にかかればどんな過去も全てネタにしてしまうからな。あそこにいる男ーーうちの秘書の懸巣は、そう言ってこの屋敷を見つけてきた」

大鷲は、テーブルの間を忙しなく歩き回る初老の男性をグラスを持っていない方の手で指し示した。白髪混じりの髪を後ろに綺麗に撫で付け、背筋がピシリと伸びたその男性は3人の目線に気付き、にこやかな笑みを浮かべながらこちらにやって来る。

「先生、こちら、探偵監修を以前お願いした鵲様です。この方は、白原先生。お医者様です」
初対面なのになんで顔と名前が一致するんだ、と鵲は少し不気味だった。だが大鷲と白原は気にもとめない風だった。

「おお、覚えてるよ。その節は世話になったね」
「懸巣さんが見つけはったんですか、このお屋敷は」

白原の質問に懸巣は一瞬キョトンとしたが、鵲が剥製を指さしたのを見て話の流れを理解したようだった。

「ああ......ええ。不動産屋に知り合いがいまして。先生がお住まいになるなら、奇妙ないわくつきの方が良いかと」
「すごいアンテナやなあ。敏腕秘書さん」
「私をおだてても何も出ませんよ」

秘書って作家の住居まで探すものなのか、と鵲が半ば呆れた顔をした時、不意に大鷲が懸巣に水を向けた。

「そういや懸巣も、鳥が好きだったな。先月出した新刊の渡り鳥のトリックでも、ずいぶん“監修”してもらったよ」
「そうなんや! すごいなあ」
「いえいえそんな。私は鳥が好きなだけの素人ですから。そういえば鵲様は探偵業の傍ら、標識調査をしていると小耳に挟みましたが......」

懸巣の言葉に、鵲はため息をつくと彼の顔を見た。

「ずいぶん僕のことをお調べになったんですね。探偵顔負けだ」
「鵲様は、ネットで話題の方でしょう? 天河市で起きた連続小学生誘拐事件。その真相をあっさり言い当てて犯人逮捕に貢献した私立探偵がいる、と」
「え!? そうなん?」

鵲はぷいっと顔を逸らした。
「それはただの都市伝説ですよ。僕は何も」
「またまた。ベテランの方をイメージされていたので、受付でお見かけして、とてもお若くて驚きましたよ。学生さんと言っても通りそうなくらい」
「おお、それは僕も思いましたよ。えらい若い方やなあって」

白原が同調する。遠回しに“スーツの似合っていない若造”と言われたように感じて、鵲は一つ咳払いをした。

「ところで...…この剥製について、カケスさんは、どう思われているんです?」
懸巣は瞬きを一つした。
「......というと?」
「このオオワシの死因ですよ。懸巣さんは、どう思われますか?」

「......それ今解明せんでもええやん」

白原が呆れたように呟いた。懸巣は困ったように眉を上げる。

「謎を解くのは鵲さんの方がお得意でしょう。素人の私の推理を聞かなくても……」
「推理のプロかどうかではなく、鳥好きとして、どう思われるかが聞きたいんです」

その言葉に懸巣は真剣な顔になり、顎に手を当てた。大鷲は2人のやり取りを面白そうに見ていた。


「......ひょっとしたら、という仮説はいくつか立てているんですが、あまり自信が持てないもので」
「ぜひ、お話を聞かせていただきたいですね。僕もいくつか思いついているんですよ」
「おお! パーティは15時くらいにはお開きだから、その後書斎でゆっくり酒を飲みながら話してはどうだ? 私も鳥好き探偵の推理とやらを聞きたいね」
「ええ、ぜひ」

鵲の言葉に、懸巣は口角を上げて微笑んだ。最初の愛想笑いとは明らかに違う、楽しそうな笑みだ。

その時階下から彼を呼ぶ声がした。大鷲の妻、那津の声だ。
「......申し訳ありません。あとでゆっくりとお話しましょう」
懸巣はそう言うと一礼し、急ぎ足で階段を降りていった。

鵲は興味を惹かれて彼の後ろ姿を目で追いかけた。食堂の前で那津としばらく話した後、廊下の1番奥のドアの向こうへと消えていった。

振り向くと、大鷲は同じハイエースに乗っていた男女二人組と話し込んでいた。車内で漏れ聞こえていた会話からすると彼らは出版社の社員だろう。

「鵲さん、どないしたんです?」
ローストビーフの皿を手に幸せそうな白原が陽気に声をかける。
「いや、カケスさんが奥の方に行かれたので...…会場を離れて大丈夫なのかなと」
「そうなん? というかあの奥って何あんのかな。先生の部屋?」


「あの奥には、大鷲の書斎があるんですよ。1階と2階ぶち抜きの」

招待客の1人が話しかけてきた。くたびれたスーツに汚れた革靴、深く皺が刻まれた顔の中で眼光だけが鋭い。隣にいる白原も少し怪訝な顔をした。

「書斎、ですか」
「中央に螺旋階段がある奇妙な構造の部屋だ。上下階とも本棚を壁一面に並べた書斎でね」
「本棚が壁一面に!?」

白原が驚きの声を上げる。
「リモートの打ち合わせした時に後ろに見えてた本棚、あれはヴァーチャル背景やなかったんか……」
「1階は編集者との打ち合わせをするスペースらしい。手元に資料はいくらあってもいいってことだろう。2階は窓から庭が見下ろせるようになっている。プール付きの庭だよ」

「随分屋敷の中の構造にお詳しいですね」
鵲の言葉に、男はフッと笑い、手に持ったグラスを傾ける。彼だけ何故か飲み物がシャンパンではなくウイスキーだ。

「大鷲とは大学のミステリ研究会の同期でね。屋敷の中を案内するだの時計のコレクションを見せるだのと言われて、何度か来たことがある。その度に、同期のよしみと言って何かと協力させられてきたが」
「協力というと」

男は古びた革の名刺入れから名刺を取り出し、2人に渡した。そこには『N県警翡翠署生活安全課 警部 山瀬道夫』の文字。

「昔は刑事課にいたんですけどね。そのせいで管内で起きた殺人事件の情報を教えろって言われて困りましたよ。守秘義務があるんだからこっちは」

山瀬はそう言うと、「では失敬、部下が下で待ってるはずですので」と階段を降りていってしまった。

「...…いかにも、仕事ができるベテランの刑事さんって感じやったなあ」

白原はそう言うとほかのテーブルに向かって歩き始めた。1人残された鵲は、再びオオワシの剥製と向き合った。

ここまで綺麗に保存されているということは、前の持ち主がさぞ大切にしていたに違いない。今の持ち主はーーワシ自体には興味はなさそうだが、懸巣氏がきちんと管理しているのだろう。

ここまで状態がいいのならば外観に何か死因につながるような手がかりが残っていないだろうか、とガラスケースを覗き込んだ時、シャンパングラスを載せた盆を持った使用人に声をかけられた。

「このあと12時より、あちらのホールで歌手の駒鳥ひかり様のミニライブが開かれますので、ぜひお聞きになってください」

テレビはあまり見ない鵲ですら、駒鳥ひかり、という名前には聞き覚えがある。年末の歌番組の常連の、かなり有名な歌手だ。広間にいた招待客たちが続々とホールに入っていくので、鵲もそれに続いた。

ホール、と言っても音楽ホールのようなものではなく、大きめの宴会場といった趣きだ。一番奥にある舞台にマイクが置かれ、楽団がスタンバイしている。

...…この屋敷の先代の持ち主は、あまり音楽に興味がなかったのだろうか。ホールの構造は、コンサートなどには不向きに見えた。音響も借りてきたマイクとアンプを置いただけという趣だ。

観客席はというとソファーが2つ、椅子が15ほどあるが、全てが埋まっているわけではない。ホールに入ったはいいがスマホ片手にすぐに出て行く人、壁際に立って談笑している人も少なくない。

それもそうだ。彼らは仕事をしにきたのであってコンサートに来たわけではない。壁際の1人がけのソファに座った大鷲氏はそんな客たちの様子を気にする様子もなく、葉巻の吸い口をカッターで切り落としていた。


コンサートの開始時刻になると、駒鳥ひかりが真っ赤なドレスでステージに立った。ホールの扉は開けっぱなし、客も入れ替わり立ち替わりなのは変わらなかったが、ステージに立った彼女は眩しいくらいの笑顔を浮かべていた。

彼女がドラマの主題歌などの有名曲を4曲歌い上げると、観客からは盛大な拍手が湧き上がった。彼女は笑顔を浮かべたまま、舞台を降り楽屋がある方へと歩いていく。

コンサートの終了後もソファに座ってぼんやりとしていた鵲は、駒鳥の顔が、マネージャーらしき女性を見た途端少し険しくなったことに気づいた。

「あのう、すみません」

声をかけられて、鵲は我に返る。目の前にいたのは鵲と同じかそれより若い男性だった。どうしてだか不安げな表情を浮かべた彼は、大鷲氏の第二秘書の山鳩と名乗った。

「鵲様ですよね。以前探偵監修を依頼させていただきました……」
彼は手に持った手帳にちらちらと目をやりながらそう言った。

「はい、そうですけど」
「先生が、パーティの後ゆっくり時間をとってお話ししたいとのことですが、お時間はいかがでしょうか」
「例のオオワシの件ですか」
「......? 大鷲先生がそう仰せですが」
「えっと...…オオワシの剥製の件でって意味ですが」

山鳩は不思議そうに首を傾げ、手帳をペラペラとめくった。何の用件かまでは聞いていなかったようだ。

「...…それ、懸巣さんの手帳か何かですか?」
革製の手帳のカバーには、カケスの柄の焼印が押されている。特注品なのだろうか。

「へっ? ああ、はい...…懸巣に急用ができましたので仕事を引き継いだのですが...…」
「彼の仕事を引き継ぐのは大変そうだ」
「そうなんですよ! もうやることが多くて.....」

鵲は思わず吹き出してしまった。山鳩が慌てて取り繕う。
「申し訳ございません。お客様に聞かせることではありませんでした」
「いえいえ。ところで大鷲先生はどちらに行かれました?」

山鳩が振り向くと、1人掛けのソファに作家の男の姿はなかった。
「あっ。これから庭で雑誌の写真撮影なんですが...…」
「置いていかれましたか。僕も一緒に行きますよ。暇なので」

庭にくるらしいルリビタキだけ見て帰りたい、という下心だけでそう言うと、鵲は若い秘書とともに階段を降りる。廊下の右手前のガラス戸が庭に繋がっているらしい。彼は1番奥の扉をチラリと伺った。

「あの部屋、書斎だってお聞きしましたけど。壁一面が本棚の。入ったことあります?」
「ええ。1階は私ども秘書の仕事部屋としても使っていまして」

「先生の時計のコレクションっていうのも、書斎に?」
「ああ……書斎の2階から続いている小部屋にあるという話ですけど、僕は見たことありません。ここに来てまだ半年で、機会がなくて」
「興味本位で見ちゃった、とかもないんですか」
「2階に勝手に上がると懸巣さんに怒られますし……あ、そういえば」

山鳩は何を思ったか、手帳のページを開いて鵲に見せてきた。鵲は慌てて目を逸らす。

「こういうのって他人に見せないほうがいいんじゃ」
「手帳の一番後ろのメモ欄なんですけど、これ...…なんだと思います?」

視線を手帳に戻すと、白いページのど真ん中に、ボールペンで乱雑に書き殴った文字があった。

「これは...…アルファベットのpとbですかね。随分豪快な字だ」
「引き継ぎをするって言われてたんで書斎に行ったんですけど、懸巣さんいなくて。で、机の上に手帳だけがあって...…このページが開いてあったんですけど、全然意味がわからなくて」

「落書きしてたんですかね。pbから始まる英単語...…って何だろう」
「仕事中にそんなことされる方じゃないですし、普段は小さくてきちっとした文字を書く方なんで、何というか...…ちょっと怖いんですよね」
「ふーん...…」

鵲も、白紙ページのど真ん中に書かれた、走り書きのようなその2文字には、確かに妙な禍々しさのようなものを感じた。

彼が気味悪がっている秘書を励ますように「あとで懸巣さんに聞けばわかるんじゃないですか」と明るく言ったその時、ガラス戸の向こうがにわかに騒がしくなった。

「邪魔だどけ!」

ガラス戸が突然開き、2人を突き飛ばさんばかりの勢いで男が飛び出してきた。くたびれたスーツに革靴、コンサートの前に話しかけてきた山瀬だ。

「おい椋本、どこにいる!? 事件かもしれない。執事に言って正門を閉じさせろ! 1人も外に出すなよ」

怒鳴るかのような彼の電話の声を聞くが早いか、鵲と山鳩は庭へと飛び出した。

大鷲邸の庭は、一面に芝生が敷き詰められていて、ガラス戸の正面にはガーデンテーブルが置かれている。右手には人だかりができている。人だかりの中心を目指して、建物に沿うようにして南に進む。

大鷲邸の建物は所々奇妙な構造をしているが、南側の建物は特に奇妙だ。おそらく例の書斎があるあたりなど、1階と比べて2階の建物が大きくはみ出す形になっている。「庭が見下ろせる書斎」というのはこういうことかと鵲は思った。

人混みを掻き分けて進むと、やがて小さなプールとプールサイドに置かれたビーチチェアが見えた。そしてプールの中にはーーうつ伏せの状態で沈んでいる男がいた。

「懸巣さん!」

山鳩が悲痛な声をあげてプールサイドに駆け寄る。確かにその男は、先ほど言葉を交わしたベテラン秘書と同じ服装だった。


鵲はプールを遠巻きに見る一団の中に、大鷲の姿を見つけた。彼は何故か白原にもたれかかるようにして目を閉じていた。

「先生はどうされたんですか」
「ああ……プールの中を見るなり気ぃ失ってしまって……」

白原は騒ぎを聞きつけやってきた那津に大鷲を任せると、「懸巣さんを引き上げるのを手伝ってくれ」と鵲に言った。

「おい、勝手なことするんじゃない!」

上から怒声が聞こえてきて見上げると、山瀬が書斎の2階の窓から身を乗り出していた。こう見ると書斎のほぼ真下がプールのようだ。

「まだ息があるかもしれへんやろ! 引き上げるのが先や」

白原は怒鳴り返すとスーツのジャケットを脱ぎ捨て、ズボンの裾を捲り上げる。鵲と山鳩もそれに倣う。鵲と山鳩がプールの中に入って懸巣の身体を持ち上げ、プールサイドで待つ白原とともに引き上げる。

プールはそこまで深さがあるわけではなく、案外あっさりと懸巣を引き上げることができた。心臓マッサージを行ったが、彼の息はすでにない。白原はライトを取り出して瞳孔を確認し、首を振った。

「あかんな……お亡くなりになっとる。12時41分」

そう言って手を合わせた白原を見て、周囲のざわめきが大きくなる。

「ああ……」と気の抜けた声をあげてでへたり込んだのは、駒鳥ひかりだ。ショックですっかり青ざめた彼女を、マネージャーの女性が支える。

「彼女が最初に見つけたみたいや。可哀想にな」
「それはついさっきのことですか?」
「駒鳥さんが先生らと庭に出てきたんは5分くらい前やから、そうやな」
「彼が落ちたのはもう少し前のようですね」

鵲は懸巣のジャケットの袖口をまくり、腕時計の文字盤を確認していた。日常生活防水の時計ならば、つけたままプールに飛び込めば当然止まってしまう。彼の時計は12時12分で止まっていた。

「12時12分...…ちょうどコンサートやってた時やん」
「時計がズレてなければ、ですがね」

鵲は先ほど山瀬が顔を出していた窓を指さす。
「この張り出した建物、位置的に例の2階ぶち抜きの書斎ですよね、山鳩さん」
「え、ええ……」
「書斎の窓から落ちてしもたってことか?」
「懸巣さんが書斎の2階から...…そんなはずは」
山鳩がそう呟いたのを鵲は聞き咎めた。彼もずいぶん顔色が悪い。

「そんなはずは、というと?」
「懸巣さん、2階は先生の“聖域”だから秘書は勝手に入ってはいけない、っていつも言ってました。実際、仕事はほとんど1階で済みますし」
「なるほど...…」

鵲は遺体の頭部を持ち上げ、後頭部を2人に見せた。
「引き上げるときに気づいたんですが、見てください。後頭部にこぶができています。
「おお...…少ないけど血ぃ出てるな」
「うつ伏せに落ちたはずなのにこんなところにあるのはおかしいなと思っていたんです」

半ばパニックに近いざわめきの中、鵲は懸巣の遺体を無言でしばらく見つめていた。

ガラスケースの中のオオワシの剥製が何も語らないように、故人となってしまった彼もまた、何も語ってはくれなかった。

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思いつきでミステリ(っぽい何か)を書こうとしてはいけない(自戒)。後編は解決編です(とらつぐみ・鵺)