真夏に「妖怪百鬼夜行展」に行ってきた(エッセイ)
こんにちは、とらつぐみです。最近暑くて暑くて仕方がないですね。
(普段から妖怪の話ばかりしてますが)やはり夏といえばお化け、妖怪、ということで(?) 先日、名古屋市立博物館で開催中の「水木しげるの妖怪百鬼夜行展」に行ってきました。
↑公式サイト
水木しげる先生は、言うまでもなく「ゲゲゲの鬼太郎」など様々な妖怪漫画を生み出した漫画家ですが、今回の展覧会は彼の描いた妖怪画が多数展示されていました。
今回はそんな展覧会に行った感想を書いていきたいと思います。
妖怪がいっぱいの展覧会
「百鬼夜行展」では、水木しげる先生の経歴や影響を受けた書籍や先人の絵や研究などの展示や、数々の妖怪画の展示と解説がされていました。
水木先生は、『鬼太郎夜話』など少年誌の連載を開始した1960年代から、柳田國男の『妖怪談義』にインスパイアされ、妖怪画の制作に取り組み始めます。
その妖怪画は、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』など先人の妖怪画を継承したものも多くあります。
そうした「元ネタ」の絵や、水木先生が創作した姿形のものに関してはモチーフにしたものを、妖怪画と並べた展示はとても興味深かったです。
特に、水・山・家など、出現する場所やテーマ別にびっしりと妖怪画が並べられたコーナーは圧巻でした。
また、妖怪画の展示以外にも、妖怪の大きなフィギュア(?)が展示されていたりと、どこを見ても妖怪だらけ、まさに百鬼夜行の展覧会でした。
見えないものに形を与える
具体的な展示内容について見ていくと、今回の展覧会のメインとなっているのはやはり石燕の『画図百鬼夜行』と並べた展示ではないかなと思いました。
『水木しげるの妖怪談義』によれば、石燕の絵は妖怪単体を描いている一方で、水木先生の絵は「背景」や「妖怪を見て驚いている人」を意識的に描き込み、ストーリーを感じさせるようにしたとのこと。
妖怪画を見てみると、シンプルな線でポップに描かれた妖怪に対して、緻密なタッチで描き込まれた薄暗い竹林や古い家屋だったり、やたらと気合いの入った作画のモブがいたり、妖怪以外の部分の描き込みの凄さに驚かされます。
妖怪というのは本来「見えない」ものであり、それを浮かび上がらせるのは妖怪が現れる「場所」であったり人の「気持ち」だったりする、ということを鋭く捉えているように思います。
また、水木先生は文献に出てきているが姿のないものや、実際に体験した現象にも「妖怪」として姿形や名前を与えています。
例えば「べとべとさん」は、水木先生が幼少期お使いの帰りの夜道、誰もいないのに後ろから聞こえてくる下駄の音を聞き、その現象は「べとべとさん」と呼ばれていた、という話が元ネタです。
「見えない」「足音だけ」の妖怪に、丸い頭に歯と足だけ生えたフォルムを与え、それを妖怪画にすることで、「べとべとさん」は初めて「見える」ようになったのです。
ちなみに、べとべとさんはアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」シリーズにも登場していて、愛らしいフォルムから妖怪好きの間では密かな人気があります(?)
↑べとべとさんクッション
名前と姿だけあった妖怪にストーリーを与え、姿がないものには姿を与える。妖怪画を描くことこそ、妖怪を「見える」ものにするということかもしれません。
「キャラ」になった妖怪は怖くない?
今回の展覧会で展示されていた水木先生の「妖怪画」は、薄暗い林やボロボロの家屋など、「妖怪が現れそう」な場所や、妖怪を見て驚く人などのストーリー性まで閉じ込めた絵です。
一方で、彼の書いた妖怪の絵は、場所や時間といった文脈を飛び出し、漫画やアニメなど、創作上の「キャラクター」として広まっていった、という面もあります。
でも妖怪が「キャラクター」になったとしても、それは「怖くなくなった」かというとそうとは限らないはずです。
以前のブログでも書きましたが、妖怪が怖いと感じるかどうかはその人にとって「リアリティ」があるかに左右されるのではないでしょうか。
↑以前のブログ(とらつぐみの鬼太郎トラウマ回の話)
テレビで流れた鬼太郎のアニメの、妖怪のキャラクターを見て「怖い」と感じたなら、それは古くて静的なものではなく、リアルにまだ生き続けている「妖怪」なのではないでしょうか。
百鬼夜行展の妖怪画は、どれも不気味だけどどこかポップで、昔からの姿を伝えてはいるけれどリアルな怖さがあります。
名古屋近辺にお住まいの方や、近々名古屋に行かれるみなさんは是非、百鬼夜行展で妖怪画を眺め、妖怪まみれの夏を楽しんではいかがでしょうか。
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百鬼夜行展の後、映画館で「ヴァチカンのエクソシスト」を観ました。ホラーは実は苦手なんですが(?) 意外と平気でしたし面白かったです(とらつぐみ・鵺)