Profile.takumi YANO/矢野 拓実
こんにちは。はじめまして。
カメラマン、写真家の矢野 拓実です。
写真が好きで、旅が好きで。
最近では、デザインや映像も仕事にしたいと思っています。
⇒20220815時点で映像のお仕事はたくさんやってる。デザインは映像の基礎って感じがあります。
今日は僕の紹介をさせてください。
小学生。カメラとの出会い。僕を誰よりも理解する母。
はじめてカメラを買ってもらったのが1年生あたりだったと思います。
動物がめちゃくちゃ好きで、
どうぶつ奇想天外!でカメラマンを見て、カメラの駄々をこねた気がする。
そこからカメラに突き進んだわけではなく、
日韓ワールドカップをテレビでみて、
サッカーをはじめたのです。
小学3年生から、はじめたものの、
6年生までリフティング10回もできず。
見かねた母が、20回ずつ増えていけば、
その都度お小遣いあげるよ、と一声。
母は強い。
息子をよく知っている。
この”ご褒美”に純粋に答え、
卒業時は、1000回超えるようになっていました。
最後には、もうお小遣いとかいらない。
どうすれば、自分はうまくなるのか。
片足からやってみるか?と試行錯誤。
この経験が、
一つ一つの失敗と小さな小さな成功体験が、
今につながっているかもしれないと思います。
中学生。挫折の連続。
中学にあがって、引き続き、サッカーを続けることにしました。
しかし、そこで、問題が。
僕がいた頃の中学のサッカー部は県大会で優勝するレベルでした。
サッカーをはじめて、3年でリフティングが10回もできない僕が、
みんなに勝てるわけもなく、中学3年間ベンチを温めました。
悔しかった。
本当に悔しかった。
めっちゃ悔しかったので、
勉強だけでは負けたくない、と頑張ったのを覚えています。
高校時代。挫折。
中学までを宮崎県都城市という環境ですごし、
それはそれで楽しかったんだけれど、
なんだかこのままじゃいけない気がする。
そう思い、
”宮崎市”という宮崎県の中では、
大都市の私立の高校に行きました。
勉強枠でいったので、
特待クラス。
そこで、2つのコンプレックスと挫折…。
1.勉強で勝てない。
勉強が唯一の勝てること、だった中学時代。
もちろん、自信を持っていたわけです。
が、さすが特待クラス。
東大を筆頭にみんな頭がよく、
勝てない現状に、諦めを感じてしまいました。
2.周りが裕福すぎる。
高校は、新しい世界を望んで飛び込んだ私立。
なんとか、中学時代の努力で、特待制度を使ったものの、
周りが何だか空気感が違う。
そう。
さすが、私立。
医者や先生が親御さんの同級生。
いまとなればそんなの言い訳にならないですが、
当時の僕からすれば、大きな差。
特に、現実を突きつけられたのは修学旅行。
高校、3つの行き先がありました。
1.沖縄。
まあまあ、定番ん。
(ちなみにここで、ソニーのサイバーショットを買ってもらい、
カメラに再びハマります。)
2.ハワイ
さすが私立。30万かあ…みんなここいくのかなあ。
…3.ボストン・ロサンゼルス。50万円以上。
行きたい。
行きたすぎる。
でも、家庭的にいけるはずがない。
ボストンもハワイも厳しい。
でもクラスの大半が選んだ行き先は、3.ボストン・ロサンゼルス。
いま考えると、うちは沖縄でも厳しかったのではと思うくらいですが、
僕は、クラスの7人くらいと沖縄に行ったわけです。
帰国して聞く、本場のハリウッドやディズニーの話。
悔しくてたまらなかった。
世界でチャレンジしたいと思いました。
それは、想像の中の世界。
それでも、あの時の悔しさと羨望は、原動力の一つになったと思う。
挫折。大学受験失敗。
人生で一番。
これだけは負けたくないと思っていた”勉強”。
それでも、高校のクラスでは常に下。
毎日毎日、往復3時間以上して通っているのに。
負けたくない。それなのに。
どれだけ頑張っても勝てない。
トドメは、大学受験。
センター試験で、模試を受け続けてもやっと7割を超えたくらい。
本気で辛い毎日。
最後の最後で、センター試験本番。
奇跡的に80%を超えることができました。
やった、と思ったもつかの間。
なんと僕の時代、高得点者続出。
背伸びして、横浜国立大学をめざしていたのですが、
ビビってしまい、大阪市立大学に急遽変更。
もちろん、準備不足で落ちてしまいます。
このとき、頭が真っ白になりました。
というのも、
もし後期試験落ちたとして、
自分はどうしたいんだ、と。
文理選択も、なんとなく、で文系を選び。
はじめて、自分がわからなくなった。
なんとか、後期試験ですべりこんだ長崎大学。
だけれども、何をしたいのかわからない自分にとって空っぽの最初の半年でした。
そして、いきなり、5月。
母からの電話。
「お父さんが、もう危ない。」
中学時代から、父とは距離がわからず、
ここでは書けない家族環境でした。
それでも、その知らせがあって、
まだまだこれから話していきたいと思って。
結局、宮崎に帰ったら、父は亡くなっていました。
最後に出会ったのは、長崎に出発する時、
病院でがんばれよと。言ったのが最後。
まともに話していないのを、後悔しました。
そして、同時期、母が倒れる。癌の発見。
母は、中学生の時にお母さんをなくし(つまり、祖母)
長女として、父親、下3人の弟妹の面倒をみながら、
看護師学校に通い、若くして働くという苦労人でした。
よっぽど、苦労したんだと思います。
大学への意味も、このまま通っていていいかわからない状態。
大学やめて、働こうかなとぼそっとつぶやいたら、
それでも、母は、
「拓実のやりたいことをやりなさい。海外いきたいんでしょ。まずはそこからはじめなさい」
といってくれました。
それから、とにかく、お金を稼いだ。いくつもバイトをして。
大学自体は、経済学部で、もしかしたら何かためになるかもしれない、
と、授業に行けない時も多かったけれど、
図書館にこもったりで勉強して、学費も免除してもらって。
母の癌も奇跡的に1年生の年末に治り、
なんとか出れた授業で、人生を変えるキッカケの出会いがありました。
「今年から、海外短期研修を行います。」
絶対に行くしかないと思った。
行き先は3つある中から、
イタリアのベネチア。
幸い、授業料も免除で、バイトしていて貯金もあって。
母も厳しいながら、10万円のお金を貸してくれた。
はじめての海外。
イタリア。ベネチア。
車一台入れない、海に浮かぶ町。
石畳、ヨーロッパの夜。
まったく違う空気でした。
研修もエキサイティングで、
なにより、大学に通う学生の姿勢が違う。
日本で何をやっているんだろう。
いろんなことを感じました。
大きく思ったのは、もっと世界をみたい。
旅したい。働きたい。住みたい。
高校時代の悔しさはここで爆発して、
僕を世界へ向かわせました。
日本に帰国して、
2年生では、NPOをやって、結果出して。
それでも足りなくて。
再び、短期研修につれていただき、
今度はタイへ。
すると、現地での友人がめちゃくちゃできて、
アジアへの興味も強くいだきました。
もっと、もっと勉強したい。
海外に出たいって思うようになりました。
すると、イタリアへ連れて行ってくれた先生から、
「矢野さん、フランスに行ってみない?」
との声をいただきました。
フランス。しかもパリ。
行かない理由はなく、母に相談すると、
「行きなさい。」と一言だけ。
本当に、なんでも、思ったことはさせてくれる人でした。
さあ、パリで暮らし始めます。
3年ぶりの、バイトもない、学校だけの自由な日々。
毎日の中で、いろんなことに出会います。
日本と圧倒的に差をつける国力。
社会システム。
授業で学ぶビジネス。
そして、体すべてで感じるアート。
気づけば、大学二年生の時に買った、
一眼レフで写真を撮っていた。
まるで、息をするように、写真を撮っていました。
めちゃくちゃ大きなものを、日本に、長崎に持って帰った。
現実。最愛の母との別れ。
パリから帰国した1月。
現実に、一瞬で戻されました。
母の癌の再発。
僕が、パリに出発したその日だったそうです。
急激な胃の痛みがあり、救急車で搬送され、癌の再発が見つかったそうでした。
叔母が僕に連絡しようとしたら、
「拓実は、絶対帰ってくるから、言わないで。邪魔したくない。」
と、連絡させなかったそうです。
たまにLINEで現状を報告していたけど、まさかそんなことがあったとは。
帰ってきて、弱った母をみて、泣きっぱなしでした。
それでも、安心させないといけない。
帰ってきて、その年、就職活動をはじめました。
母を少しでもはやく安心させたい。
そう思い、早期内定を考え、
いろいろ調べますが、
宮崎も、長崎も、福岡もなかなかそんなに早い会社はない。
やっぱり東京だ。
そう思って、就職活動と、大学と、母の看病と、東京、長崎、宮崎をひたすら飛び回りました。
最終的に、得意の会計で、これから上場するであろうと感じたITベンチャー企業に内定をいただきました。
やっと安心させられるし、これから働いて、そのお金で、自分を育ててくれた母を、自分を思いっきり、前へすすめてくれた海外に連れて行くんだ。
決心した矢先に。
6月。
母の様態が急変し、そのまま急逝してしまいました。
僕のことを世界一愛してくれ、理解してくれた母。
あまりのことで、
からっぽに。
これからどうすればいいのか、全然わからない。
あまりに人は早く死ぬ。
すべて、真っ白になりました。
就職。熊本大地震。
母がなくなり、それでも生きていかないといけない。
大学4年生は、いままでの数倍、バイトしました。
幸い、リクルートの長崎支店が雇ってくれ、卒業間際の2月まで、
お給料はもちろん、最高の経験をさせていただきます。
また、頼ってくれる後輩や、福岡、東京の会社の人事の方がたくさんいて、
就活のイベントを任せて頂き、なんとか忙しさで心を紛らわせようとしていました。
ここで、いろんな後輩の相談に乗る中で、
自分はなにしたいんだろうな、と、
再び考え出します。
正直、内定先の会社に行く理由も失いました。
母を安心させたい。
それだけでした。
でも、やってみないとわからない。
そう思い、会社にむちゃをいって、3月から早めに就職します。
が、4月。
熊本で大地震。
友がたくさんいて、いつ、何が起きて、人は死ぬかわからない。
ずっとこれが頭から離れず、
「明日、死んでも、幸せな人生か?」
と、問いただす社会人1年目の毎日でした。
出会い。夢を思い出す。
そんな時、以前おつきあいしていた人から、安藤美冬さんのイベントにいきたいんだけど、一緒に来てくれないか。と。
実際にいってみると、
安藤美冬さんと美冬さんの叔父の菅井さんの対談でした。
そこで、たまたま美冬さんとお話し、
よくわからなかったけれど、
何か見つかるかもしれないと思い、
オンラインサロンに入ってみます。
サロンで、たくさんの人生の先輩のお話をきき、なんだか自分もしっかりしないと、と思い始めます。
そして、夢を思い出します。
2016年、山の日。
友人が、たまたまチケットをくれた、旅祭。
ここで、美冬さんをはじめとする旅人の話をきき、
そしてこの写真を撮ります。
この写真を撮ったあと、
みなさんが各種SNSで使用していただき、
こんなにも反応あるんだと驚くと同時に、とても、嬉しかった。
自分が生み出した物が、喜んでもらえる。
この瞬間、夢を思い出しました。
パリで、写真を撮っていた。
世界を写真を撮りながら、回っていきたいと思った。
そして、自分は、
人に喜んでもらう写真が撮りたかったんだ。
すると、気持ちはまっすぐに、
明日死んでも後悔がないように。
カメラマンになりたい。
と、思うようになりました。
世界を旅する。撮り続ける。
僕がやりたいのはこの2つです。
お金が溜まったら。
スキルがついたら。
そんなの関係ない。
明日死ぬなら、やったほうがいい。
その思いに突き進められ、
会社員時代に、ひたすら、
オンラインサロンのメンバーや、友人に頼んで、ポートレートを撮らせてもらいました。
スリランカでの旅では、出会う人できるだけ全員の写真を撮らせてもらいました。
そして、ジンバブエ、パリ、ロンドンへ。
ジンバブエというアフリカの現実。
自分を変えた、アナザースカイ、パリ。
しかし、帰国の1年後、シャルリーエブド事件と、同時多発テロがおき、
その現実を見ておこう。と旅経ちました。
ロンドンもまた、EU脱退から、どう変わるのか見ておきたかったというものがありました。
そこで感じた話は別途、写真展。「魔法と、現実と。」にて。語っております。
帰国後。フリーランスカメラマンへ。
12月、帰国し、
写真の勉強を行い、
1月、フリーランスカメラマンへ。
そこから、少しずつさまざまなお仕事をやらせていただいたり、
写真展もいくつかやらせてもらい、はや一年。
本当に、ご縁で生かさせてもらっています。
本当に、ありがとうございます。
これからの目標。
人生で、一番のめりこんでいる写真。
僕は、市橋織江さんを尊敬しています。
彼女が成し遂げていること、生き方がかっこいい。
もちろん、一番は、世界にインパクトを与える広告写真を撮影すること。
そのために、ひとつずつ、メディアや起業家、これから活躍していく人の力になりたいです。
そして、写真を撮りながら、世界を回って、クリエイティブな発信をつづけていく。
写真を通して、クリエイティブという分野で、たくさんの”伝える””残す”という幸せを作りたい。
2017年という一年を通して、前に進めました。
仕事としての撮影も、そして、大好きな人たちを撮り続ける人生でありたいです。
写真を通じて、僕自身を通して、届けたい。諦めないこと。
カメラマンという以前に、現在24歳という人生で、こんなにも、多くの経験をするとはおもいませんでした。
宮崎に生まれ、
現状は常に不満だらけだったし、
あまりに、ライフイベントは大きかった。
だからこそ、
どんな現状でも、田舎に住んでいても、大学に落ちても、
両親がなくなっても、
諦めなければ、絶対、何かを成し遂げられるということを、
僕自身の人生を通じて、証明したい。
拓実、という名は、両親が
自分の道を開拓し、実らせる、という願いを超えてつけてくれました。
この名前を実現していく為に。
<2018年5月追記>
身の回りにある幸せを、誰しもが撮れる世界でありたい
カメラマンとしてクライアントさまからお仕事をいただき、写真家として作品作りをやってきてはや1年と4ヶ月。
ありがたいことに、週の大半をお仕事をいただけるようになり、その合間合間でモデルさん、ヘアメイクさんと作品を撮ったり、海外に出向いていま開催中の”青とニューヨーク”のように作品を制作しています。
そう、この仕事もライフワークも、体がそこにいくことが前提なんです。
もう一つある、ずっと変わらない思い。
iPhoneが手に入り、ぼくらはいつでもどこでも写真が撮れるようになったのに、なくなった両親の写真は1枚もこの中にはない。
そんな思いで、”愛”を撮り続けたいし、人は残すべきだと思う。
”身の回りにある幸せを、誰しもが残せる世界”、は傲慢にもこの仕事を始めた頃のぼくは全部やるんだと思っていました。
でもね。
手のひらにあるじゃないか。
誰しもが、カメラマンになれるじゃないか。
カップルの写真も親子写真も、僕以外の誰かだとしても、
基本的なiPhoneやスマホ、カメラの使い方を知れば、その人のらしさをだせる。友達のカップル写真や親子写真。自分の親や子ども。大切な時に、感動を思い出す、そんな写真を撮れるために、撮影以外の時間で、こうやってやり方をシェアしていきたいです。
<2018年10月追記>
大切なパートナーである妻とこれからを生きていく。
心から大切な存在ができました。
陶芸家である妻は、日々、新しい世界を僕に見せてくれます。
両親が他界し、
祖父母も、兄弟という存在もなく、
誰に頼ることも苦手な僕で。
ずっと一人で生きていくのかなと思っていました。
写真に本気で、情熱を注げれば、と思っていたけれど、
彼女の想いのこもった生き方に感動して、
意気投合して、
一緒に人生を歩いていくことを決めました。
久しぶりの家族で、
心が温かいです。
Salon de Photoの存在。
いま、オンライン・オフラインのコミュニティ、
Salon de Photoを運営しています。
一人でも写真を通じた活動で、みんなが幸せになればいいなと思ってます。
このサロンも僕を構成する一つ。
後悔だけはしてほしくない。
最後に、写真を撮り続ける理由ってなんだろう、
って考えました。
僕のiPhoneには、両親の写真は一枚もありません。
これだけ写真を撮るのが簡単になった現代。
写真家である、僕が、です。
これだけは、一生、叶いません。
この後悔は、してほしくない。
家族も、恋人も、そして自分自身も、
あの時撮っておけば、
あの時撮っておけば、残せたし、伝えられたのに。
そんな後悔は、僕に出会った人にはさせたくない。
世界は、変わり続けます。
変わり続ける世界に、
変わらない一瞬を切り撮る。
それが僕の仕事です。
takumiYANO.
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