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【徒然】無宗教は善なのか
この記事は正確な情報を伝えるものではありません。あくまで個人の考えです。
日本人は無宗教の人が多い。数えたわけじゃないから本当かわからないけど、噂ではそうらしい。実感としてもそうだろうなと思う。
単に「属する宗教はありません」ならそうですかで済むけれど、「どの宗教にも属さないので、私は偏りのない正義です」になるとそれは偏りのある考え方だろう。
残念ながら日本で言う無宗教は後者が多い。数えたわけじゃないから...... 日本人にとって「宗教」がすでにネガティブな意味を含んでいて、それと関わりのある人は悪であり、異端であるという論法。
この言動はある意味人間として自然な振る舞いに思える。すなわち、
未知の存在に恐怖する
自己正当化する
の二つの行動原理によって説明できる。
未知の存在に恐怖する
狩猟採集の時代、我々は野山で獣を狩って暮らしていたそうな。野生の世界で生き残るには、いち早く危険を察知して回避する必要がある。
暗がりで草むらがガサガサ揺れる。それは獲物のウサギかもしれないし、恐ろしい熊かもしれない。どちらか判別できない以上は、最悪な状況を想定して行動した方が安全だ。
身の危険を察知して未然に回避するために、人間には恐怖という機能が備わった。
わからないものにはまず恐怖して身構えた方が安全だからだ。
馴染みのない「宗教」は未知の存在であるから、すなわち恐怖の対象となる。
恐ろしいものがまさか善良であるはずがない。身に危険を及ぼす悪である。少なくともその可能性が高い。宗教が恐怖≒悪ならば、無宗教である私は善ないし正義であるわけだ。
自己正当化する
「宗教は悪、無宗教は善」なんて暴論がまかり通っていいわけがない。それを肯定したら世界中悪人だらけだ。
しかしこと日本では無宗教が多数派なので、「宗教は悪、無宗教は善」とした方が和を乱しにくい。
これも太古の共同体における生存戦略の一つ。複数人で協力して生きていくためには、和を乱す者は矯正するか退場してもらうかしかない。
もし仲間外れを喰らえば、衣食住を自分一人で満たさなければならない。バッファが極端に少ないので死亡のリスクが上がる。
そんな事態にならないために、なんとしても私は正しくあらねばならない。それが絶対的である必要はなく、私は和を乱すものではないと示せれば充分だ。
あなたは正しいし、私も同意する。我々は仲間だ。そうしておくことで死亡リスクを下げられる。
日本においては宗教を主張しない方が生きやすいわけだ。
宗教アレルギーを記述する
日本人の宗教アレルギーをまとめると以下の流れになる。
未知の存在「宗教」は恐怖の対象
恐怖すなわち悪、危険
相対的に私は善、正義
日本ではそれが多数派
和を乱すと生存可能性が下がる
身を守るために必ず肯定
要するに保身である。生存本能に従ったほうが生きやすいからそうしているだけ。
確固たる信念や論拠が無いからこそ、弱い犬状態に陥って過剰に反応してしまうのだろう。
次回は無宗教であるリスクを日本の自殺率と絡めて考えてみたい。