赤沢美林 奥千本を歩いて
5月10日に林業研修で木曽上松の赤沢美林という場所を訪れました。
この日貴重な経験をさせていただいたので少し歴史的なことと体験した風景を文章で残しておこうと思います。知識のない素人の記録なので間違いもあるかもしれません。
木曽の赤沢美林は子供の頃、両親にも連れてきてもらったことがある場所ですが、その頃の自分は森林には深い興味はなくて、川遊び、森林の中を走るディーゼル機関車に乗れる場所、というイメージだったが改めて訪れると見えてくるものがまた違いました。
実はここは青森のヒバ、秋田のスギと並ぶ日本三大美林のひとつで木曽檜(ひのき)を中心とする天然の森林です。
赤沢美林は森林浴発祥の地とも呼ばれており赤沢自然休養林とも言われています。
5月〜6月頃にかけては森林内の「フィトンチッド」という森林セラピー成分が最も濃くなる時期だそうです。
現在赤沢自然休養林とも呼ばれるこの森林の名称には歴史の影が隠れています。「赤沢美林」と呼ばれる前は「赤沢備林」と呼ばれていたそうです。
どちらも読み方は「びりん」ですが伐採が進んでいた時代の「備蓄するための森林」から伐採が禁止になった後、保護の動きの流れの中で天然林として「美しい森林」という名称の変化したそうです。
江戸時代後期に激しい伐採によりほぼ丸裸にされたこの森林はそれ以降、伐採禁止の決まりができ、木曽檜を含む木曽五木を中心に人が手を加えてはいけないということになったそうです。
ただ唯一、例外がありこの森林の檜は20年に1度の頻度で行われる伊勢神宮の式年遷宮という建て替えの行事のための御用材となるので、そのときに行われる御杣始祭(みそまはじめさい)で2本の御神木の檜が切り出されることになっているそうです。
次回は来年2025年にその行事が行われる予定だそうです。
そしてこの日は特別に普段は立ち入ることのできない「奥千本」という学術的なエリアに立ち入らせていただきました。
こんな経験はもしかしたら一生のうちに一度しかできないのでありがたく思います。
学術的なエリアへの入り口は、苔がむしている森林鉄道の廃線が道になっていてそこを進んで行きました。苔好き、廃線好きとしてはそれだけでテンションが上がってしまいました。
当時はこの山の中を様々な方向に分岐したこの鉄道を利用して木材を運び出していたそうです。
伊勢神宮のある三重県までは川の流れや水の力を利用して運んでいたそうです。近くの川には木材がうまく流れるよう、川の中の大きな岩が切り出され道のようになっていました。
山道を進んでいくと、20年に一度の御杣始祭のときに皇族の方に使ってもらう予定で過去に作られたトイレが山の中にありました。
結局使われず幻のトイレになったそうです。
そのあと「強度伐採跡地」という場所を通りました。
ここは中でも過去に伐採が激しかった場所であるようで木々の悲鳴が過去になっていたような無惨さが感じられました。
けれどそのような時代から300年あまりが経ち切り株の脇からまだ細く小さな新しい木々が伸びてきていました。
そのような出来事を乗り越えて成長している 木々の生命力を感じました。
さらに山道を進んでいくといよいよ奥千本に辿り着きました。
独特の静けさ、「音」が印象的でした。
空間的には広くて陰樹といわれるヒノキやアスナロ(ヒバ)が主な植生で静かに立っていました。
ところどころ日当たりがよい場所には広葉樹が点在しているような感じでした。
このエリアも過去に多くの木が伐られ、今現れている風景は300年ほどかけて再生した風景だそうです。
伐採によって伐られた木の切り株の下の根のシステムは長い時間が経ってもまだなんとか生きており、それが地中の水分などを吸い上げその上に苔がむし、そこに母樹から飛んだ種が落ち、水分や養分を吸い上げながら長い時間をかけて新しい命をがはじまることがあるそうです。
そのようにして古い木の根の上に育つ木を「根上がり木」と言うそうです。
風雪などが厳しい木曽の檜は年輪が密で一年にわずか1ミリ前後しか成長しないそうです。その木がこのような森林に再生するのには途方もない時間がかかるのだと思います。
当時、多くの木々を伐採してしまった人々。
生活などもかかっていたのだと思います。
昔は年貢を木材で納める、ということもあったと聞きます。
そのような時代を経て森林を守るためのルールや保護の流れを作ってきたのも人。
ある時代にはきっとたくさん木を切れる人が活躍していただろうし、ある時代には同じことをするとその人は罰せられました。
同じ人でも矛盾するようなことをしていますが多分どちらも美しく それぞれに理由や思いがあり、よいともわるいとも思えません。
そこにいつでもどっしりと構えている木達。
1年に数ミリの速度で成長する木達にはこれからの自分たちへの様々なヒントが詰まっているかもしれません。
そんな経験から今、思うことは
目の前のこと
自分に見える風景が自分にとっての季節で誰かに習う必要はない。自分が今日見た、感じた景色をもう一度頭の中で繰り返してみる。
少し遠くのこと
今日あったこと、近くの風景に思いを巡らせながら少し遠くのこと自分でない立場の人やものにも思いを巡らせてみる。
今日も使い捨ての容器に頼ってしまった自分をあまり罪に思う必要はないのだけど、美しい自然に時々触れる時間を時々でも持つことは大事なんじゃないかな、と思います。
いつも遠目で見ている山も実際に入って歩くと、普段過ごしている場所でも美しいものはまだたくさんあるのだなぁと気付かされます。