書評「タタール人の砂漠」ブッツァーティ作・脇 功訳
1.あらすじ
すべてのインドア人は炬燵が好きだろうと思う。ギターをそばに侍らせて、かじかんだ指先を炬燵で融かし、ちょっと弾いてはまた読書に戻る。
みなさんもそうした冬をお過ごしのことと思います。お過ごしでない人は、まあ僕を羨んでください。
今回僕が紹介する本はタイトルにもある通り、「タタール人の砂漠」(ブッツァーティ作・脇 功訳)です。いま僕の手元にあるのは岩波文庫の2023年の2月24日の第15刷ですね。発行者は坂本政謙さんです。
昔からモンゴルにロマンを感じてきた(チンギス・ハンのお墓ってどこにあるんだろうね~?)ので、「タタール人の砂漠」というタイトルには悶々とさせられる僕ですが、なんと読んでみるとこの本、「タタール人」など出てこないではありませんか!それに読んでみるとすぐにわかるのですが、まず舞台はヨーロッパ。作者のブッツァーティさんはイタリア生まれなので、イタリアっぽい地形を想像させられます。
では、どういった話なのか要約致します。
「青年将校ジョヴァンニ・ドローゴは、故郷の街から離れた、ある砦に配属される。その砦は森を抜け、山を越えたところにあり、砂漠に面している。
その砂漠は果てしなく続き、砦の兵士たちは皆、砂漠の向こうからやってくるはずの敵に備えて、日々警戒を怠らない。
はじめはこんなつまらないところ、すぐにやめるつもりだったジョヴァンニも、それとなく上官たちに引き留められ、気付くと何年もそこに居座ってしまっていた。たまに街へ帰っても、自分の居場所はなく、交遊も途絶えてしまう。ジョヴァンニはいつしか砦に残り続ける男たちと同様、『タタール人』が砂漠の向こうから攻めてくるの妄想し、それをやっつけることを期待して過ごすことで、毎日が同じように過ぎる砦の生活に、すっかり慣れてしまった。そこに、ある後輩の青年将校のシメオーニが、望遠鏡で覗いた砂漠の遥か彼方に、なにか見えると言い出して―」
という話で、「タタール人」は砦に住む(を守る)兵士たちの共通観念としてはたらく話となっています。さすが、二十世紀幻想文学の古典、と銘打たれるだけあって、観念的なものの使い方が超絶うまいです。
2.描かれる「危機的な状況に備える人間たちの日常」の心理
この作品では、「いつもは来るはずの敵に対して息巻いているくせに、敵が現れたようなら動揺し、『やっぱやめとく・・・?』ってなる心理」をうまく書いています。兵士たちは、「いつか『タタール人』めがやってくるんだ。俺たちはそいつらをやっつけるためにこの仕事に耐えているんだ」と思わざる得ないような閉鎖的な環境の中、軍隊式の生活リズムに適応しつつ過ごしています。しかし、実際に敵が現れるかもしれない、という情報が砦の中に蔓延しただけで、兵士たちは過剰に浮足立ち、そして年老いた上官たちは、なんの判断も下そうとしません。そうこうしているうちに、それが単なる使節団だとわかったり、道路工事だったとわかったりして、みんなはまた日常へと戻り、「タタール人」をやっつける夢を見ます。
しかし、別に「タタール人」国家とジョヴァンニの国が対立しているわけでもなく、そもそも、作品の時代設定(銃とか普通に使っているのであきらかに近代国家)から考えて、「タタール人」が猛威を振るっていた13~14世紀とは明らかに時代が違います。つまり、「タタール人」が敵として現れるわけもないことは、みんな腹のうちではわかっているのです。奇妙なことに、「敵国」「隣国」としか表現されない実際の敵に関しては、砦の兵士たちは無関心です。みんな、実際は「こんな小さな辺境の砦に攻めてくる敵なんかいやしないさ」と思っているのです。ただ、それでも自分たちの任務に意味を持たせるために、「タタール人」という幻想を抱くのです。
なので、意識的には「昇進したい」と願うジョヴァンニのような若者でも、無意識に「敵なんて来るはずないさ」と思っているために、急なハプニングには慣れていないところがあります。年功序列型のジョヴァンニたちの軍隊では、年老いた上官たち、たとえばオルティス大佐にはそうした傾向がもっと強く、彼は急で攻撃的な判断を下すことができません。
そして、敵襲が無かったことを知ると、みんな結局は味気ない日常へ戻るしかなく、自分たちが恥ずかしくなってくるのです。
こうした意識の動きを、個人の内面を描くのではなく、砦全体の兵士たちの意識の動きとして描くところに、ブッツァーティのうまさがあります。
3.日常への固執、<時の遁走>
主人公のジョヴァンニ・ドローゴとその仲間たちはいつしか、砦での生活に慣れてゆき、いつしかそこから逃げ出すことが困難になります。そして本書の解説にて、訳者の脇先生が指摘するように、<時の遁走>が始まってゆきます。砦の兵士たちは日常へと固執してゆき、「光陰矢の如し」、時間は逃げるように去ってゆき、どんどんドローゴたちは老いてゆきます。
自分たちもいつかは手柄を上げて出世して、結婚や出産をして最後は幸せに暮らすはずだという思いが、それぞれの青春の中に眠っているが、それが必ずしも叶うとは限らない、ということを、ジョヴァンニの一生は示します。例えば、最初上官たちに引き留められるときは、「四か月だけ待ってみると、健康診断でウソをついてもらって逃げられるから、それまで待ってね」と言われ、次は「四年くらい待ったら君も経験を認められて、次の職場で有利だろう」と言われる。こんな具合でどんどん引き伸ばされていく砦での駐屯期間が、ジョヴァンニの青春、人生すべてをむしばんでいくことがじわじわと示されてゆきます。また、久々に街へ降りて、友人たちが自分よりもはるかに出世していたり、街並みが驚くほど変わったことにジョヴァンニが驚くシーンも印象的です。友人の妹マリアとも、いい感じだったはずなのに、「今やふたりはふたたび隔てられ、彼らの間には虚空が広がり、相手に触れようと手を差し伸べても無駄だった。(p.236より)」となってしまう。
部屋というモチーフの対比も面白い。個人として尊重される度合いや、「居場所」というものを暗喩に持った、「部屋」。彼が一度家に帰った時、四年も経ったのに母親はまったく変わっていなかったのに対して、彼の部屋は「彼の部屋は出発した時のままだった。本一冊動かしていなかったが、それでも彼にはなんだか違う部屋のように思えた。(p.221より)」となっていました。そしてその直後、
「つまり、世界はジョヴァンニ・ドローゴなどなんら必要とせずに動いているのだ。(p.221より)」
とかましてきます。対して、あの砦には自分の部屋があり、自分の役目がある。ここらへんの対比が際立つことで、ジョヴァンニの人生の実際の拠点がどこにあるのか、彼自身にはまったくわかっていないのに、読者はわからされます。
こうして、ジョヴァンニの人生がどんどんと移ろい、そして砦に根を下ろす間に、<時の遁走>が始まります。彼自身、気が付かないうちに年をどんどん取っていき、肉体的にも、社会的にも、そして精神的にも砦を出ることが難しくなってゆきます。訳者解説にも書かれていることですが、最初の方の章では一日々々のことがくわしく書かれているのに、真ん中あたりになると月単位で、そして最後には年単位で話が進んでゆきます。
こうして、一瞬で人生が過ぎ去る様が、<時の遁走>として描かれます。
4.さいごに
ブッツァーティの「タタール人の砂漠」では、辺境の砦を守る兵士たちが、自分たちの人生を浪費しているということにうすうす気が付きながらも、「タタール人がやってくるぞ」と信じ続け、ずっと同じ歳月を過ごし続ける様が書かれています。軍隊式の生活リズムの中、実はそれが自分の人生のリズムそのものになっていることにも気付かず、日常へと固執してしまう様がスリリングでした。自らの人生を振り返ってみて、また、これから待ち受ける人生を眺めてみると、案外自分の人生もこんなものかもしれない(しかし、作者は最後にちゃんと、主人公ジョヴァンニに最終的な試練を与え、人生が「こんなもの」で、つまらないものではないと示します。)と思うと空恐ろしく、幻想文学かくあるべき、という様を見せつけられたように感じます。今日は以上です。
2025/1/10