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澁澤龍彦の口
文豪と呼ばれる人の中で、私が死んだあとアッチへ行ってから話してみたい人の上位に来るのが澁澤龍彦だ。彼のおしゃべりはずっと聞いていられる。なにせ、あの人は話題のアングルの切れ味が最高で、何を話しても良い。
小学館P+D BOOKSから出ている『マルジナリア』や、今日買った『魔法のランプ』なんかを読んでいるとそう思う。
確かに澁澤の『サド復活』『胡桃の中の世界』などのガチ論集は重厚で、手加減無用に徹底的に調べ上げて読み込むスタイルもいいし、ベースにある知識量が半端ない『犬狼都市』なんかの創作もいい。しかし、ただの日記調の文章では、お茶目なところが出てきていて可愛い。例えば、「日記から」という連載の「方向痴」という文章では、「方向音痴という言葉はおかしい。こんな日本語があるものか。方向痴でいいじゃないか。」と怒りっぽく始まる癖に、話は自分が方向音痴なんだという話だ。オチはタクシーの乗り過ごしになっている。
さて、澁澤のおしゃべりについてだが、基本彼は「誰々について」という風な論じ方はあまりしない。『サド復活』にしたって、サド伯爵について書いていることは間違いないのだが、「マルキ・ド・サドさんはこうした作家でした」という風な筆致ではなく、サドの作品から抽出されるイメージに従って彼が独自に文献に当たって、さまざまなところから例を見つけて引いてきて話が進む。たとえば「権力意思と暴力 あるいは倫理の夜」では、「暴力」というものに対しての澁澤的な哲学を述べたあと、その暴力というもの、権力と言うものがいかにサドの作品と関わってくるか、ということを述べているのであって、逆ではない。
そうした澁澤が、お酒を飲んで(三島由紀夫が言うように、酔えば、志那服の裾をからべて踊るのだろうか)、口を文字通り酸っぱくさせながら澁澤が喋るときの口を生で眺められたらどんなにいいだろうか。
彼の口はきっと「これを食べよう」とか「これを話そう」とか思いながら動くはずはない。
そういえば、岡本太郎は「わが友ジョルジュ・バタイユ」の中で、バタイユの攻撃的な論旨のときの口が、とりわけその時に覗くぎざぎざの歯が強烈に印象的だったと言っている。
バタイユの歯は文字通り噛みつくためにとんがっていたのだろう。それなら、澁澤の歯はどうなっているのだろうか。澁澤はついぞ何か対象を絞って喧嘩を売ったことはない人だ。そうであれば、がぶり、とやるための歯じゃなく、お酒を飲んで自分の知識を放出するための、案外口の中が広くとれるように配置されている、お行儀のよい歯なのではないだろうか。
さて、死んでからのお楽しみにアッチで澁澤龍彦と話をするなら、という話だった。
ちなみに、「こういうことを話したい」といったことは、あるにはあるが、どうせ話すタイミングが無いだろう。埴谷雄高が澁澤の全集に寄稿していた文章の中で、「澁澤さんがいる会のときは、澁澤さんが八割くらい喋る。」と言っていた。埴谷雄高で二割だ。私など一厘ももらえまい。