逆上する苦沙弥先生と3人の珍客【#吾輩は猫である#読書感想文8】(毎日更新90日目)
夏目漱石の「吾輩は猫である」の細切れ感想文の第八回目、本書の第八幕であります。
第八幕あらすじ
吾輩の主人、苦沙弥先生の家のほんの先には落雲館という中学校があります。
今回はそこの学生と先生の一悶着の話です。
今は中学校との間には四つ目垣を作ったのですが
すこし前までは中学校との間に境界線がなく、しょっちゅう学生が近くの林にゴミ捨てたり大声で歌ったり大変迷惑していました。
先生の家は周囲が空き地に囲まれているもんだから、生徒たちの様子が座敷からも手に取るようで目障りでしかたない。
それだけならまだよかったが、生徒たちはだんだん家のそばまで蚕食(=侵略)してきて平気で敷地内をうろつくように。
見かねた主人は迷惑だから控えてくれと生徒たちに注意するも、おさまるどころか行為はエスカレートして、勝手に家の裏からきて人んちの門から出ていく有様に。
こりゃたまらんと校長先生に直談判して、さっきの四つ目垣を作らせた。
猫くらいしか通り抜けられない生け垣だ、これで安心と主人。
ところがせいぜい1メートルくらいの高さの生け垣、生徒たちはこんなもんじゃ止まりません。
今度はわざわざ生け垣を越えてまで入ってくるようになりました。
主人が裏の書斎にいるときは中へ入って大声で騒ぎ立て、主人が便所へ入って小窓から覗いているときは平気な顔して目の前を通り過ぎ、子どもたちに完全にからかわれています。
しまいには野球をはじめて、しょっちゅうボールが家に入ってくるように
主人はもう逆上しまくって、藤子不二雄で見たようなカミナリおじさんと怒らせては逃げる少年たちの図。
しょっちゅう頭に血をのぼらせて、すっかり疲れてしまう主人。
そんな時に家には、実業家の鈴木藤十郎、かかりつけ医の甘木先生、ヤギのようなヒゲを生やした八木さんの三名が立て続けにが訪れ、ストレスフルな毎日の主人にアドバイスをしてくれるのでした。
しかしそれにしても悪戯三昧の生徒たち、これが実は主人と険悪な仲の金持ち金田の差し金だったんですねえ。。
感想
我が主人は今回近所の生徒たちのおかげで散々な目にあいます。
ちょっとかわいそうで気の毒だなと思いました。
しかし頑固一徹、胃弱の主人はめげないし、子供相手だろうと本気です。
大人の余裕なんてそんなものはありはしません。
吾輩は主人のことが心配ながらも、もっとうまく立ち回ればいいのにと事態を静観しています。
生徒たちをこわい顔して大声はりあげ追いかける主人ですが、ぼくはこの光景が古き良き時代のような気がしました。
昔の漫画では野球をしていた少年が近所の窓ガラスを割ってカミナリおじさんに怒られるみたいな描写がよくありましたよね。
昔はこういうのは日常だったのかもしれないなと懐かしいような気持ちがしたのです。
近所のこわいおじさんが本気で叱ってくれる、そんなことはぼくの時代ですらすでに存在しませんでした。
ここに現代人の人との距離感の遠さ、地域性の薄れを感じてどことなく切ない感じがしました。
子供のいたずらを近所のおじさんが叱ってくれるこんな時代がほんの100年前にはあったんだと。
そんな光景に温かさを感じ、こんな時代は今よりずっと安心できるような町だったんではないかなと想像しました。
今はおじさんが近所の人を叱りつけようもんならお母さんはなにをウチの子に!って超怒ることは予想できる。
人の価値観は少しの間にすっかり変わってしまったんだなと思うわけです。
ぼくはこの話にあったような気安い時代が再来することを望む人間です。
筋にもどりますと
さすがの主人もいささか疲れてしまい
家に来た3人の来客に愚痴をこぼすんです。
鈴木藤十郎君からは、もっと丸くなれ、君みたいに四角ばっていては渡世で傷つくばかりだよと。
かかりつけ医の甘木先生からは、催眠術でもやって気を鎮めますかと、やってみますが効きません。
ヤギみたいな旧友の八木さんからは
もっと大きく構えなさいと、西洋を見習ってなんでも真正面からぶつかっていくのはよくないよと。
西洋はなんでも積極精神で環境や周りを変えようとする。
川が生意気だと思えば橋をかける
山が気に食わないとトンネルを掘る
交通が面倒だと鉄道を通す
そんな精神ではどこまでいっても気に入らないことは出てくるし、決して満足できる人生にはならんと。
日本の文明のように根本的に周囲の境遇はそのままにして、自分の気持ちの捉え方を変える消極精神をもってはどうかと勧めるのでした。
長いものには絶対に巻かれない主人、それでは生きにくいのは確かです。
現に金持ち金田とやりあって苦労してますからね。
3人の珍客によって諭された主人ですが、どうでしょう。
少し考え直すかな?
この主人、苦沙弥先生は夏目漱石の自分自身を大いに投影し客観的に見つめたようなキャラクターだと思います。
漱石は中学校、高校と教師を務めたあと33歳でイギリスへ留学したのですが、自分の存在意義やアイデンティティー、文学とは何かそういったことに悩み、人種差別があったことも相まって神経衰弱で引きこもりになってしまいます。
この「吾輩は猫である」はそういった心の霧が晴れた晩年の作品なのですが、その時の自分のように作中の苦沙弥先生も自分の生き方に悩んでいますね。
人間は40歳が人生の正午といわれています。
自分の理想の生き方を実現するためには、その正午までに自分軸を作ること「自我の確立」をすることが大切だともいわれています。
自我の確立は誰もが通るべき道でありますが、40歳というのは一つの目安でありその時期は人それぞれです。
自分は何者で、自分は何が好きで、何を大事にして人生を生きていくのか?
自分はどうしたいのか?
自分には一体何ができるのか?
そういった問に自らの心で明解に答えられること。
そこにたどりつくまでの過程が書かれているようにも思われました。
自我の確立をすることは何歳になっていたとしても必要なことで日々の生活で自分と向き合って進めていく必要があります。
自分の納得のできる生き方、死に方をするために
この話はまたnoteで書けたらいいなと思います。
今日は「吾輩は猫である」の第八幕のあらすじと感想でした。
それでは今日はこのへんで
またあした。