(宮崎県西諸県郡)高原町議会議員
2019年4月の出陣式の一コマ
高校教員として電気(工業)を千人以上に教える機会を13年いただいて、遣り甲斐も充実もさせていた教員生活にピリオドを2017年に打ち、親孝行を含め、父が抱えていた地元農業担い手不足の役に立ちたいと、転職を決めた切っ掛けだった。
(私立)都城高等学校の電気科職員として勤務(地元に戻ってきて)7年間、朝6時に家を出て、夜8時~9時、遅くて11時頃に帰宅する日々であった。その時間帯の牽引として、弓道部の部活顧問として、特待生を迎え入れ強化部活動としてふさわしい成績と生徒らの自己肯定感や実績を得るために、土日もなく練習に打ち込み、無経験者であった自分のスキルアップと指導力アップを含め、個人的に弓道の技術向上と心身鍛錬の為に道場に通い、家族サービスとPTA活動を疎かにしていた。
転職をするということは、家族を巻き込むことであることから、たくさん悩んで、妻に相談して、両親に相談した。
人それぞれにターニングポイントがあるというが、私にとっての何回目かのターニングポイントであったと思う。
退職をするということは、今まで行なってきた全てをリセットするということ。決して器用ではない私は、酉年なのに猪みたいに猪突猛進。
父が頭を抱えて悩む姿と、自分の老後を考えた時、今何かを変えるタイミングだと自然に感知していたのではないかと思う。
いざ地元の地に足が付いたその時に、今まで見えていなかった高原町の現状に愁い、若者が声を上げ、上をお支えし、下を引き上げることができないかと町議会議員の出馬を決意
2018年に高原町立広原小学校のPTA会長に推薦していただき、活動している中で、より一層我が子を含む子どもたちを取り巻く環境に関して声を上げる必要性と、我々世代の30年後を考えた時、今がそのタイミングではないのだろうかという魂の疼きがあったように思う
【優しいだけでは選挙は厳しい】
新参者が出馬を決め行動を起こすと、若い事は大きな武器であるものの、田舎ほど親戚票や友人知人票が大半であることが理解できた。
誹謗中傷も伺った。悲痛な叫びも伺った。今までの町長や議員や役場職員に対する不信感なども伺った。出馬しなければ見えなかったアレコレや、聞こえてこなかった声や、感じることのなかった様々な感情、それで一度飛び込んで関わって経験しなければ何も分からないし、変わらないという思いからもがむしゃらに選挙戦を戦った。
お陰様で、家族や親戚、地域の方々や多くの関係者のご指示とご支援を賜り430票で当選させていただいた。
町議会(地方議会)は、「具体的な政策の最終決定」と「行財政運営の批判と監視」であり、町議会議員(すべての議員)は、住民から選ばれ、その代表者として議会の構成員となるのであり、「選良」ということばで呼ばれるように、人格・見識ともにすぐれた代表者である。したがって、議員の一言一句は、とりもなおさず住民の意見であり、住民からの声であるべきであり、議員が行う質問や質疑・応答は、同時に住民の疑問であり意見であり、表決において投じる一票は、住民の立場に立って真剣な一票でなければならない。『議員必携』著:全国町村議会議長会[編]より
早いもので、任期(1期4年)の議員職も残り1年となった。定例会は、年4回(3月、6月、9月、12月)全てに一般質問をし、良きところは取り入れていただいたり、反映していただいたり、検討していただいたと感じる。
議員は町民の代表であるから、これまで一生懸命に取り組めた
残り1年も町民の為、未来の子供たちの為、他の自治体同等のサービスは当たり前、他の自治体にない取り組みや他の自治体を超えるサービスの提供などを取り入れていただけるようこれからも「非難よりも提案を」よりよい環境整備となるよう残り期間も努力したい。
令和5年4月改選
どうなる高原町!どうす高原町民!!
政事は人によって変わる