ドレミファソラシに色がある
小学校で配られるノート、国語は赤、数学は紫、理科は緑、社会は橙、英語は水色。こんなふうに、教科に色のイメージを持っている人は多いと思う。不思議と、半分ぐらいあなたの想像と同じ色だったりするかもしれない。
私の感覚では、ドレミファソラシドには固有の感覚、喩えるなら「色」がある。正確に言えば、各音に対するイメージがあり、そのイメージが連想される色がさらに対応する。
(ただ、これは調に対する相対音感的なもので、例えば「ハ長調におけるハ」と「ニ長調におけるニ」は同じ色をしている)
私の中で1オクターブの白鍵が持っている色を列挙してみる(同じ色を感じる人がいたら嬉しい)。
ドは基準のド
色なし(黒、白またはその中間)。あまりにも基準のイメージが強すぎて、明確に色のイメージがつかない。
レは浮遊感のレ
淡いクリーム色。淡くて、物の名前で喩えられてしまうような、色としての存在感に欠ける「浮いた」色ならどれでもいい。
ミは純真のミ
青、または薄青緑色。準安定的で、ソの次に直線性を持ち、かつ綺麗で清楚なイメージ。
ファは情動のファ
赤みがかった橙色。懐かしく、温かい。
ソは直線性のソ
空色、または透明。突き抜ける、安定も不安定も指し示さない色。
ラは情熱のラ
力強い赤。あるときはマイナーカラーの、激しい感情や悲しみを持ち、力強い安定感を持つ。
シは夜空のシ
紺色、紫色、または灰色。レの次に浮遊感を持ち、さまざまな感情を表出する。
ただ、これすら音単体でのイメージであって、音の重ねかたや時間的推移によって異なる色を持つこともある。
あなたが「白」を見るとき、それは「ただ明るくて色みのない色」だろう。それすらも他の色を知っているからそう感じるだけで、白しかない世界で、そこに「色」はない。
あなたが「青から白に変化していくもの」を見るとき、それは「色が薄まっていくもの」あるいは「明るさが増していくもの」だろう。そう感じるのは、あなたが「無意識に背景を白紙に設定し、絵の具を薄めていくこと」を想像した結果、あるいは「強すぎる光で飽和した白飛び」を想像した結果だろう。そして中間に現れる水色は、「水色」であると同時に「中間色」という属性を持つ。
あなたが「青、白、水色」の並びを見るとき、それは「青」「白」「水色」である以上に「同系色」だろう。白でさえ、青と水色の直線上に置かれることで「青系」の中に存在させられる。
私は音楽を聴くとき、作るとき、この色のような考えかたをしている。
それぞれの音にはスケール内の役割による色があり、同時に、縦方向(和音≒配色)と横方向(時間変化)の連なり、各個人のもつ固有の文化や知識、経験の質と量による色も持つ。ひとつの色は、ある文脈においていくつものキャラクターを、重ね合わせとして同時に持つことができる。そして持たざるを得ない。そう、音楽とは「相対性の塊」であって、その組み合わせの有機的膨大さこそが、音楽が「結論」にたどり着いてしまわない理由だろう。
音楽理論と聞いてみんなが思い浮かべるのはコード進行だと思う。実際私も、音楽を分析する上で最も強力なツールだと考えている。でももしこれを読んでいる人で、作曲、あるいは音楽の分析まで踏み込んだ鑑賞をする人がいるなら、コード進行の理論で止まらないでほしい。色のまとまりを「春らしい配色」などと命名して、その中に含まれる鶯色や桜色を、文脈によってその他の意味を持ちうる色たちを、ひとつの概念に押し固めるようなことはしてほしくないのだ。
強力な理論はいつも、握りつぶされた繊細なニュアンスたちの屍の上に築かれている。忘れないようにしたい。