instagramを見なくなった
こんにちは。
2025年が始まって1週間ほど経過しました。
ここ数年instagramが全然面白くないなと思って見なくなったんですが、今回はそのことについて書きたいと思います。
何故instagramが僕にとってつまらないものになったのか。
生活における幸せとは何か。
人はなぜ見えない敵と戦うのか。
そのあたりのことをテーマに書いていきます。
★隣の芝生は大して青くない
「隣の芝生は青い」ということわざがある。
これは、他人と自分の所持品や生活、行動を比べて、羨むことを意味している。
具体的な例を出すと、人の話を聞いたりSNSを見ていて
「実家がお金持ちでいいなぁ」、「すごい一流企業に勤めてていいなぁ」
「この人美人だなぁ、こんな顔になりたいなぁ」「この人今日は高級料亭に行ってるんだ、いいなぁ」
と思ってしまうこと。
でもこれは、別の人から見ると「そんなことが?」と思うような種類の芝生が青かったりもするのだ。
「家族で楽しそうに食事をしてていいなぁ」
「一人でカップラーメン食べてるのいいなぁ、ウチはどんなに疲れていても、家族の食事の準備をしないといけないからなぁ」
これ、人によって中身が異なるだけで、抱く感情は変わっていない。
つまり、ほとんどの人はどこかしらの芝生が青く見えているということ。
ただここ数年、僕は「言うほど隣の芝生って青いか?」と思っている。
どの芝生を見ても、全然青く見えない。
実家が金持ちの人を見ても、特に欲しいものとかないし。
高級料亭の美味しそうな料理を見ても、モスバーガーの方が僕にとっては美味しい。
東京の一流企業に勤めてる人は、電車が込み合って通勤が大変そうだ。
美人は美人で変なやつに目を付けられそうだし、モテたいという感情も特にない。
周りの芝生、全然青くない。
現状、僕はそんなに人から羨ましがられる暮らしはしてないが、自分は今、自分なりにそこそこ幸せなんだなと思う。
★instagramの世界と自分のライフステージの乖離
ここまで書いたことと、instagramに何の関係があるのか?と思う人もいるかもしれない。
そんな人たちに向けて、なんとなく僕が最近のinstagramに抱いている印象としては2つあって、①「生活感ありすぎ」②「映えに振りすぎ」。
個人的に本名で登録して、同級生とかと繋がってるSNSは、今ほぼ全て投稿してないけど、各SNSの印象は以下のような感じ。
僕は今年30歳になるが、友達のほとんどはライフステージが変わったようで、instagramには子育てや、子供とどこかに出かけた投稿の割合がかなり多くなったように感じる。
これが前述した①「生活感ありすぎ」。
申し訳ないけど、子供が好きじゃないので全然興味がないし、見てて何も面白くない。
もう1つの②「映えに振りすぎ」は、飲食店や旅行先などを調べるときに目にするスポット紹介やお出かけ投稿。
最近は調べても、加工のしすぎで食べ物も景色も実物と違いすぎていて全然参考にならない。
また、食べ物や景色を探したいのに、投稿の7割にはきれいな女性がメインに映っていて、食べ物や景色はオマケのような構図になっている。
20代前半の頃は、ちょっとデートで恰好つけたいとか、こんなお洒落な店を知っているカッコいい自分というものを演出したくて、そういうお店を調べるのにinstagramを使っていたが、今は本当に使わなくなってしまった。
これは、食べ物の見栄えや内装のデザインより、味を重視するように自分の価値観が変わっていったからなのかもしれない。
僕が見ているinstagramの世界はほとんど上記の投稿で溢れてしまったため、instagramを全然見なくなった。
作られた世界やPRよりも、人が本音で紹介している旅行先や、美味しい飲食店を知りたい。
以降、本音ベースでの投稿だと感じられる人の発信内容や、長くその地域に住む人の発信内容を探すようになった。
★見えない敵と戦う人
SNSを見ていると、時々「見えない敵」と戦っている人を見る。
一対一ではなく、一対多(しかも距離感もバラバラ)のコミュニケーションであるにも関わらず、周囲を見下したような発言や、ステータスを誇示しているような発言をしている人である。
これらは「人から認められたい」、「注目を集めたい」という自分の心理的な承認を満たしたいという欲求から発生している行動だ。
承認欲求自体は誰にでも存在する自然な感情であるものの、上記のようなアピールをしている人は、勝手に仮想の競争社会を作り上げ、その中で自分より下の人間を見つけて安心したいのではないかと感じる。
つまり、誰もお前のことなんて気にしていないのに、自らの妄想が作り上げた「見えない敵」と戦ってるだけなのだ。
また、承認欲求というのは勘違いされがちだが、「人から認められたい」というプラスの感情だけではなく、「恥ずかしい思いをしたくない」「馬鹿にされたくない」、「自分はデキるやつだと思われたい」と、自分の評価を保つことに必死になる側面もある。
別にみんな思ったほど君のことなんか見てないんだから、肩の力を抜いた方が良い。
そんなアピールをする人も、それに触発されてしまう人も、日ごろの生活で満たされない何かを抱えてる人なんだなと周囲に思われてしまうだけだから。
★映画「Perfect Days」について
つい先日、帰省した際に「Perfect Days」という映画を飛行機内で見た。
この映画は、現代での生活にちょっと疲れた人や、余裕のない人に見て欲しいと思える映画だった。
ストーリーは特になく、役所広司さんが演じる平山さんという無口なおじさんの日常を切り取ったもの。
平山さんは浅草の古いアパートで決まった時間に起き、古い車でカセットの音楽を流しながら出勤する。
自分の持ち場である公衆トイレの清掃をして回り、駅の居酒屋で食事を取り、古本屋で買った小説を読んで、近所の銭湯に行き、眠りにつく。
毎日少しずつ変化は訪れるものの、基本的には似たような日々をくり返す物語。
彼の趣味は、古いカメラで木々や空の写真を撮ること。
休憩時間は神社でサンドイッチを食べ、木を眺めて一枚だけ写真を撮る。
小さな苗を見つけて持ち帰り、霧吹きで水をかけ、育てる。
毎月写真を現像し、その写真を月ごとの箱に分けて保管する。
そんな平山さんの日常がただただ流れる映画だ。
平山さんの仕事に打ち込む姿勢はとても見ていて気持ちが良い。
普通の人がやりたがらないような公衆トイレの清掃という低賃金な仕事だが、平山さんはその仕事を楽しんでいる。
口数は少ないが、人には優しく、話した後はにこやかに微笑む。
平山さんは、誰とも自分を比べることなく、自分の習慣の中で凪のような生活を送っている。
自分の生活を手の届く範囲に留め、誰からも影響を受けることなく、その範囲で楽しく生きているのだ。
他者と交わると、良くも悪くも感情が揺さぶられる事象が発生する。
ラストシーンの涙は、あの映画の中で微かに起きていた刺激に対する突発的な反応だったのではないか。
他人と比べることなく、小さな幸せを大事にしたいと思える、そんな映画なのでぜひ見て欲しい。
★まとめ
年末、帰省した時に友人と会ったんですが、その時にPerfect Daysという映画の話になったので、その時に話したことや最近感じていることを今回は書きました。
見た目の美しい異性と日常的に交友し、派手な仕事で金を稼ぎ、広くてきれいな家に住む。
一般的な成功者に見える生活をみんなが過ごしたいと思っているのだろうか。
自分の幸せを決められる権利は、自分だけのものではないだろうか。
SNSは現代人にとって当たり前のツールとなりつつあるが、少し刺激が強すぎる側面もあるように見受けられる。
Perfect Daysでの平山さんの生活は決して上記のような生活には見受けられなかったが、彼は幸せな暮らしをしているように映った。
自分の1日1日に起こっている出来事を噛みしめて、他人と比べることなく、自分だけの「Perfect Days」を見つけていきたい。