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人はなぜ他人の不倫に口を出すのか
つい先ほど、新総理が石破さんとなった。
私の政治信念はともかく、政治政策や選挙など大好物である。
私の権利行使だからね。そして本日の午前中、首班指名選挙の当日に国民民主党の党首である玉木さんの女性問題が報じられた。なんというタイミングでぶつけてきたのだ。ここぞを待っていたのは明白だ。
今回は我々国民は選挙権が無いので、印象が悪かろうと玉木さんやーめたとなることはないのだけれど。
私は常々こう思っている。その人が評価されるべきは、その価値提供業務の範囲でのみであるべきだし、当事者以外は無関係だと。この考えには異論があることは承知だ。特に政治家は国民に寄り添い国民を想い政策を決定する立場であるので、個人の生活において倫理に反する人間が広くあまねく国民を幸せにできるのかと。
為政者は聖人君子たるべきか
しかし、政治家なんだから優れた政治ができりゃなんだっていいじゃんの考えもアリだ。では優れた政治力とはなんなのか。為政者は聖人君子であるべきなのか。フランスでもアメリカでも元首の女性問題など頻出するではないか。私の友人のフランス人などは政治家にどんな女性問題があろうと全く関係ない。フランスに良きことをもたらせばそれが優れた政治家であり、人気も高く尊敬されると。
芸能人の不倫ネタ騒ぎもしかりだ。スポンサーや関係者は怒ってもいい。影響がある人ならば文句の一つもチクリと言いたくなるのもわかる。
しかし、不倫によって芝居の質が下がるのか?楽曲に輝きがなくなるのか?
だいたい文句を言っている人は家族でも恋人でもないだろう?
これらを整理すると対象(不倫した人)の立場と処罰の根拠で区分けできる。有名人の中でも自分の才覚で生きている人、つまり芸能人ね。これは人気商売だから大きく嫌われ芸能界から去る場合もあれば、ほぼおとがめなしということもある。一方、我々の税金で生きている政治家や公務員などね。これはそんなために高い税金支払っているのではないぞとなることもわからんでもない。だが一方で、「政治家に優れた政治をしてもらい賃」を払っているわけであって、「清廉潔白・聖人君子である賃」ではない。
優れた政治という業務の中に潔白さというステイタスも入るのだろうか。「君子」といえば孔子は『論語』において次のように述べている。
孔子曰く
子貢曰、君子之過也、如日月之食焉。
過也、人皆見之。
更也人皆仰之。
君子にも過失がないわけでは無いと言っている。日食月食はめったに起こるものでは無いがたまには発生する。このくらいの頻度で過ちを犯してしまうんだという。説得力のある何ともきれいな表現だ。君子の過ちを衆人が見て、君子は過ちに気づくとすぐに改めるのでさすがは君子だと衆人は感服する。これが前章句の過失をごまかそうとする小人との対比である。小人は過ちを犯すが、君子は犯さないという対比ではない。この日食月食が頻度を表すだけでなく、君子の過ちが君子の故意の所為ではないと同じだというものもある。自然現象の不可避なものと君子の過ちを同列と見ている。
なるほど。あの孔子先生も意外と寛容ですね。私は正直言って芸能人はどうでもいいと思う。需給バランスでひとりでに決まるので放っておけばいいと思う。
政治家はズバリ魅力よね、政治家としての。
手腕力量たたずまい。
習近平とトランプとプーチンと堂々渡り合い、日本をどうしてくれるのか。国民を豊かにし尊厳のある国家作りができるのか。
それができるなら愛人がいようがデートしようが双方合意ならどうぞと言いたい。
玉木さんは続投するらしい。
そして石破さんよ、女はいないみたいだけどどのような君子っぷりを見せてくれるのか。