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人民は優しく手懐けるか、さもなければ抹殺してしまうかだ(『君主論』第3章)

※この記事は2022年1月22日にstand.fmで放送した内容を文字に起こしたものだ。


僕たち人間は、常に他の誰かに向けた何かしらの活動をしている。例えば、商品の製作のような、いわゆる仕事であったり、利潤を求めない慈善活動であったり、あるいはそのどちらもしていなくても、家に住んだり食料を買ったり家でNetflixを楽しんでいる行為でさえ、サプライヤーに向けた活動の一つだと言える。

そうした活動の中でも、特に規模の大きい活動(数十人、数百人単位で行う活動)になると、他人に与える影響が自然に大きくなるのは想像がつくと思う。例えば会社経営をするとかだ。

そんなとき、ターゲットにしている人々というのは、当然自分達の活動に共感してくれる場合もあれば批判してくる場合もある。人間が完璧でない以上、人間が作り出す価値も完璧ではない。これは納得していただけると思う。
では、批判してくる人達に対してどんな対応を僕たちは取るべきなのか?
これに一つの考え方を与えてくれるのが、今回紹介したい『君主論』の一節である。

前回も話したが、『君主論』というのは15世紀から16世紀にかけて活躍したイタリアの政治家ニッコロ・マキャヴェッリによる著作だ。「君主たるものがいかにして権力を維持して政治を安定させるか」という手法が全26章にわたって綴られていて、ルネサンス期に情勢が激しく変わっていたイタリアにおいて、時の僭主ロレンツォ・デ・メディチという人物に献上された本がこの『君主論』である。

その中の第3章の一節にこんなことが書かれている。

人民は優しく手懐けるか、さもなければ抹殺してしまうかだ。
なぜならば、軽く傷付ければ復讐してくるが、重ければそれができないから。したがって、そういう誰かを傷つける時には、思い切って復讐の恐れがないようにしなければならない。

これは、「君主が新しい領土を獲得した際に、その領土を維持するために軍備をどう構築するか」という文脈の中で書かれていることだ。
マキャヴェッリはこれについて、「植民兵を送り込め」と言っている。植民兵というのはその名の通り、植民地から募った兵士たちのことだ。
なぜこう言ったのかというと、獲得した領土にわずかに残された耕地や家屋を没収して、新しい住民に与える行為を植民地の兵士にやらせることで、「君主に逆らったら自分達も同じように身包みを剥がされる」という恐怖を覚えさせ、君主に危害を与えさせないようにするためだ。
「抹殺」と聞くと、物騒な響きがするが、これは、ただ残虐の限りを尽くすという意味ではなく、君主が自分の立場、そして治める国全体を安定に保つための手段として、こういうやり方を覚えろと言っている。

これは会社経営例えると、買収戦略などに近い。有名な事例で言うとFacebookの Instagram買収などがこれに当たる。
Facebookは、その膨大な広告収益による資本を駆使して、ライバルになりそうなSNSベンチャーを次々買収するという戦略を何度も行なっている。そして買収に応じない企業に対しては、資本力の差で顧客を囲い込むと言う行為をしてみせるので、度々独禁法違反の対象として槍玉に挙げられることも多い。
この戦略はまさに「手懐けるか、抹殺するか」というやり方に近いものだ。つまり、Facebookに対抗してくるような企業は、資本の力で子分にするか、さもなければ失墜させるかのどちらかだということ。

当然こういう戦略は賛否両論だ。さまざまな業界の人が「市場の公平性を阻害する行為だ」と批判している様子も何度か見かける。僕も確かに酷なやり方するなと思う面もある。

ただ、やり方はなんにせよ、その買収戦略によってFacebookという企業がインターネットの世界を進歩させているのは間違いない。Instagramを買収したから、「ストーリーズ」や「リールズ」といったトレンドを作り出せているわけだし、それ以外にも、Oculus Questを買収してVRの市場を広めようともしている。
新しいエンタメやテクノロジーを取り入れることでインターネットを進化させている事実があるのだとしたら、Facebookの買収戦略も一つのやり方として認識すべきだろう。

結論、生き残るためなら強引な手段も覚えておく必要があるということだ。
今回はFacebookの事例を挙げてみたが、これに限らず、人間関係でも試合でも、強引な手段を使った方が有効な場面はたくさんある。時と場合に応じてそういうやり方を利用するのが有効な場合もあるので、皆さんも参考にしてみてほしい。


参考文献:君主論 (岩波文庫)

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