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#33 センスの正体についての考察

センスは知識という言葉に納得する反面、どこか腹落ちしきれてない部分があった話。

センスは感性だと言う話があったり、 センスは知識で補えるという話があったりで結局センスって何で磨くんやって思ってた。

僕もセンスを得るために写真集を買ったり、写真の知識を蓄えたり沢山アプローチしてきた。 けど、どこでそれらの限界点みたいなのが見えるようになってきた。 センスを磨いてるのではなく、 センスの良いものの模倣ではないか。 という疑問が浮かび始めた。

もちろん、これまでの過程を否定するつもりもないし、今その過程に居る人はこれから先に辿り着くかもしれない話だと思って聞いて欲しい。

じゃあ、その疑問点が浮かんだ大きな理由が仕上がった写真を見た時だった。 仕上がった写真の中に自分が存在しないように感じたからだった。
レファレンスした写真の表面的な部分を掬い取った上澄みの写真であるように感じてしまった。
オマージュといえば聞こえはいいのかもしれないがオリジナルではないことへの悔しさみたいなのが入り混じった感情だった。

じゃあ、センスとは一体何なのか。 技術を磨くためには知識がいる。
それを活かすためには前例を知ることが不可欠になる。
知らないことは誰も成すことができない。
想像以上のことは創造できない。
そう考えるとセンスは知識なのかもしれない。

ただ、そうなると知識の域を超えないのである。
周りのクリエイティブや流行っているものを分析して真似てを繰り返してを考え続けていく。 そこに自我はなのかもしれない。
ある程度の成長軌道に乗るためには必要なことだがその先にあるのは何なのかという問いにも繋がってくる。

じゃあ、僕はどう思っているのかという話に入ろう。
端的にまとめると、経験ではないかと思っている。

これまで感じた感情や匂い、光景、好き嫌い、得意不得意、記憶、出会いなどの人生を通して感じたものが写真に反映されて、それがセンスと呼称されてるのではないかと考えるようになった。

そう感じたきっかけは、今年開催したグループ展でのことだった。 『anima』というタイトルで物には魂が宿っているのではないかという考え方を基に不法投棄された物に魂は宿っているのかという問いを投げかけた。 展示解説などを通して、納得できた部分とどこか物足りなさを感じた。

それが自分自身である必要がないと気付いたからだった。

もちろん、それを撮っているのは自分で自分の作品としての誇りもある。 ただ、どこか他人事のように見えてしまった。

いわゆる、一般論に近かったのだと思う。 写真を解説するときに、自分がどうしてそれを撮ろうと思ったのか、その中に自分としての理由が作品の重みになるように感じた。

経験しなければ感じなかったことや気付けなかったことがあると知らないことを知ったようには話せない。

それは写真というコンテンツも同じで、
孤独を知らなければ孤独は撮れない。
愛を知らなければ愛は撮れない。
だからこそ、センスは経験なのかもしれないと感じるようになった。

そういう意味で言うと、センスを磨くという話をするのであればフェーズによって必要なことは変わる。
知識のフェーズ
経験のフェーズ
それぞれのフェーズが作用し合うことで独自のセンスが確立されていくのかもしれない。

この解釈は人によって違うと思うから一参考程度に留めて頂けると嬉しい。

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