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枠または型、それは良いのか悪いのか?
皆さん、お元気ですか?
書こう書こうと思っても、どうにも気が向かず、更新が滞りがちになってしまいます。
このところ、妻とともに、映画2本と歌川国芳展を見てまいりました。映画は「モアナ」と「孤独のグルメ」でござりんす。
ところで、「べらぼう」も見始めました。それに影響されてか、つい語尾が吉原調になってござりんす。
不思議なもので、「候う」も「ござりんす」も耳に残って、つい言葉にしたくなります。
「候う」は手紙の書き言葉にはよく使われます(使われていました)。丁寧な言葉で書くとき用なのでしょうか。
現代で言うと、各地の方言や舞妓さんの言葉など、色々と耳に残ったり心惹かれたりするものはあります。
普段使わない言葉だからこそ、何か口に出してみたくなる。ふと真似てみたくなる。そういうものなのでしょうか。
口が気持ち良くなる、というのもあるでしょうね。声に出したい言葉、気持ち良くなる言葉。Creepy Nutsさんの「Bling-Bang-Bang-Born」もバ行の破裂音が口に気持ち良いそうです。
または異空間に誘われる言葉、日常から切り離してくれる言葉、とも言えそうです。高知のワンマン電車に乗った時、そこらじゅうに土佐弁がこだまして、「ああ、高知に帰ってきたがやなあ」と、ふと私も土佐弁で独りごちたことを思い出します。
七五調で詩や俳句、短歌が展開されるのもまた、気持ちよさゆえですね。
近代文学でも、明治の言文一致前または過渡期の作品は七五調の語りが展開されていて、気持ち良いです。
私の何気ない文章の中にも、気持ちの良さが欲しければ、言葉の響きに気をつけて、展開すればよござんす、と思いたくもなるのです。
こうして書いてみると、口に出して気持ちのいい言葉、というのは、一面的に定義できるようなものではないような気がします。
リズム、韻、流行り、非日常、人によって言葉に感じる気持ちよさというのも様々なのかもしれません。
主題に挙げたことの話はまだ何もしていません。
そうです、私は妻と一緒に「モアナ」と「孤独のグルメ」と「歌川国芳展」を見てまいりました。
個別に感想などを書いていると、ネタバレにもなりますし、長くなりすぎますので、あえて3つまとめた感想や共通点?を捻り出してみましょう。
ちょっと考えてみましたが、よく分かりませんね。
ジャンルも全然違うし、3つの共通点を見出すのは難しそうです。
強いて言うならば、「枠」でしょうか。「いき」ではなく「わく」です。「制約」と置き換えることもできるでしょう。
それぞれ制作上、枠に縛られています。映画は上映時間、絵画は「絵」「紙」「版木」といった物理的な制約と、「日本的な絵」(浮世絵?)という文化的な制約です。
「モアナ」は壮大なお話です。伝承に裏付けされた壮大なお話。これを2時間に収めなければならないのは、大変難しそうです。そのため、話の筋を根本的な「課題」の解決に絞っているように思います。
そこにエンタメ的な要素がたくさん盛り込まれているのでさすがだと思いますが、日常の営み、文化、伝承そのものについて、描くことを諦めざるを得ない部分も多々あったのではないでしょうか?
モアナが村長と酒を酌み交わす?儀式の場面などは、文化の一面を切り取ったものであり、興味深かったです。
「孤独のグルメ」は劇映画ということで、普段の五郎さんなら絶対しないであろう行動があり、「それは無いだろ笑」となり、その点ではある種「型破り」であり、枠にはまらない感じもしました。
しかし、物語自体は、前の展開が次の展開に繋がっていき、言うならば五郎さんの行動には「何の無駄もない」という物でした。
因果関係がはっきりしている展開であり、それゆえ分かりやすく面白く、色々な場面で合点がいく物でした。
この分かりやすさこそがエンタメの醍醐味でもあり、枠でもあるのです。
限られた時間でお客さんにどう楽しんでもらうか、ということを重点に置いていて、素晴らしくもあります。
一方で「分かりにくさ」や「不可解さ」、「もやもや」、「不愉快さ」がないという点が物足りなくも思われるのです。
断っておきますが、面白くなかったという訳では全くありません。
今回、試みに「枠」という枠組み(枠にはまってますね)で書いてみているため、こういう見方をしているだけです。
実際、「枠」の定義もグラグラしている感じがします。
「枠」はいい物なのか悪い物なのか測りかねている感じが自分の中にあります。
「歌川国芳展」は奇才絵師国芳の型にはまらない作品が数多く(尋常じゃないくらい数多く)展示されていました。
猫や金魚がまるで人間のように振る舞っている作品や、人がたくさん密集して人の顔を形作っている作品(アルチンボルドの野菜で人の顔を模る作品を彷彿させる)など、型破りの作品がたくさん展示されていました。
ではどこが枠にはまっているのでしょうか?
一つ一つの作品が、というよりも作品群としてある枠の中で描かれているように思われるのです。
それは、浮世絵として、美人画として、武者絵として、役者絵として、それぞれが括られるもので、そのジャンルから大きく離れることはありません。
ゆえに、多くの人に愛される作品になる。売れる作品になる。作品は何より人を楽しませるものであり、求められる作品を描くことが重要だったのだろうと思います。
タピオカが流行っている時に、タピオカの代わりにナタデココを入れて売り出してみても、きっと売れないでしょう。
なぜなら人々はあの流行りの「タピオカ」が飲みたいのであり、「口の中にスポスポ入ってきて心地よいもの」なら何でもいい、という訳ではないからです。(ちょっと何言っているのか分からないです。)
売れるものを描くのは作家としてごく自然のこと。ある枠組みの中でどれだけ個性が出せるかが大事だったのでしょう。
ところで、なぜ美人画に出てくる女性は、なぜ決まって同じ顔をしているのでしょう?
特に2点、特徴的だと思うのは口と目。口は米粒2粒をチョンチョンと置いたような形で、目は細く目尻が少し上がっています。
街を歩いていると思いますが、別に日本人はそれほど目が細い訳ではないし、唇の形もそれほど画一的ではありません。それは数百年前だって大して変わらなかったのでは?
それなのに皆一様に同じ顔をしているのは、それが型だったからだと思います。
国芳展、妖怪たちは目が大きいんです。武者も目をひん剥いている人がいる。
おそらく、目や口の大きさや開閉というのは、人の顔の特徴というよりは、表情や感情と紐づいていたのでしょう。具体的には大きな目(ひん剥いた目)は怒りや恐れ、恐ろしい形相、というものに結びついていた。
美しい女性たちは、目や口が小さいから美しいのではなく、控えめで落ち着いた雰囲気を漂わせているから美しい、それが目や口に類型として表れているに過ぎない、と推測しました。
(女性の美しさについて論じているのではありません。不愉快にさせたらすみません。)
やはりそのような型があるから、絵もその型を出ない。
今の漫画やアニメは目がどでかいのに、なぜ昔の絵は目が決まって小さいのだろう、と妻と話していたら、「目を大きく描いた人はいるかもしれないけれど、そのような人の絵は淘汰されたのだろう」と言っていて、なるほどと思いました。
というわけで、「枠」という視点で今回は一連の作品について語ってみました。どうにも、容貌について語る時には、色々と気を遣うものです。あまりルッキズムとは思われたくありません。
また気が向いたら何か書こうと思います。ではでは。