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英語を話せる喜びって何か、考えてみた

20代の頃、海外に住んでいたことがある。
日本の外の、知らない文化の中で暮らしてみたかったからだ。

渡航前、英会話はほぼ出来なかった。
スクールにも通わなかった。
友人達は「全然喋れないのに怖くないのかなと思っていた」そうだ。
怖くなかった。
行けば、自然と話せるようになると思っていた。
というか、そこまで深く考えてなかった。
今思えば、”怖いもの知らず”とは、まさにこのことかもしれない。

でも、現実は甘くなかった。
現地で語学学校に通ったものの、ネイティブの人達とは会話出来ない。
こちらから話しかけているのに、相手の返事が理解できないし、
理解できても、今度はこちらの言葉が出てこないのだ。
自分のせいで会話が成り立たないもどかしさと、私の異様な緊張が伝わって、相手の顔に困惑の表情が浮かぶ。
それが次第にトラウマになり、話しかけるのが恐怖になってしまった。
私にとって彼らは、違う言語を持つ"異星人"だった。

結局、そのまま語学学校を卒業。
通学中も卒業後も、同じ学校の日本人同士でつるんで、普段の生活に困ることはない。
その頃はもう、現地の人と会話が成り立たない事に慣れてしまっていた。

日本の外で生活してみたかったのに。
日本の外で生活しても、現地の人と交流しない私は、
ただ長く居るだけの観光客だった。

このままじゃ、何も変わらない。
日本語の通じない環境でないと無理だ、と思った。

日本を発った時と同じように、”怖いもの知らず”が、私の背中を押した。
英語が話せない、大きなコンプレックスを抱えたまま、私は一人、旅に出た。


旅を始めた頃は、会話といえば、安宿のスタッフと交わす決まったフレーズくらい。
それでも、何かあったら一人でなんとかしなければならないという緊張感。
伝えたいことを伝えないと、まともに旅が出来ない切迫感は、私に必要なものだった。

そして、旅の途中、ある街に差し掛かった時のこと。
語学学校で同じクラスだったヨーロピアンの子と落ち合った。
韓国人と日本人ばかりのクラスの中、彼は唯一の欧米人だった。
学校ではほとんど話すことがなかったが、
彼も旅をしてその街に寄るというから、出発前から約束していたのだ。
宿で久々に会った彼は、同じ宿に泊まる数人のヨーロピアンと既に友達になっていて、一緒に観光に行こうと私を誘ってくれた。

近くの山へハイキングへ行ったり、海で一日過ごしたり、早起きのねぼけまなこで、朝日を観に行ったりした。
みんなの話す英語はゆっくりで、意思の疎通はなんとかできる。
彼らは私よりずっと英語が話せたけれど、私のぎこちない小声の英語も、面倒くさがらずにじっと聞いてくれた。
彼らの包容力に助けられて、私はだんだんと、相手の目をきちんと見て話せるようになった。

日本語を話さなかった数日間。
その日々は、私にとって大きな転機となった。

ヨーロピアンの彼らと別れ、また一人で旅を始めた後、頭の中を支配していた、英語を話すことへの抵抗感は、徐々に消えていった。
自分と相手の間にあったはずの遠い距離が、ぐっと近くなった感覚だった。
相変わらず、何言ってるか分からない時もあるし、自分の言葉もたどたどしい。
でも、自分が勝手に置いていた心の距離がなくなると、今までがなんだったのかと思うくらい、口からスルスルと言葉が出るようになった。
ネイティブ達は、私を理解しようと、真剣に聞いてくれるようになった。
でも、変わったのは、彼らではない。
私の中で、彼らが”異星人”ではなく、同じ人間になったのだ。

その長い長い旅を終えた後、私はいくつかの現地企業で働き、
ネイティブとルームシェアしたり
訛った英語しか聞こえない、満点の星空が輝くド田舎の町で暮らしてみたり
最後はもはやイヤになるくらい、未知の文化にドップリと浸かって、海外での生活を終えた。
帰国後もずっと、英語を使う職業に就いている。

行って良かった。
”怖いもの知らず”だった私が、私に英語を与え、世界の人々と泣き笑い出来る人生を与えてくれた。


あれから数十年。

『英語に、努力し尽くした喜びを。』
ふと目にした中吊り広告のキャッチコピーに、
あの頃の心の変遷を思い出す。
少しの息苦しさと共に。

生成AIが登場した今、もはや言語学習など不要だという人がいる。
それは、ある意味正しい。
私も、仕事で海外相手に書くメールは、AIに書いてもらうことがよくある。
AIは、言語の異なる相手との「交信ツール」としては、とても有用だ。

でも、AIは、あくまで「交信ツール」でしかない。
この先、たとえもっと便利にAIが発達しても、自分と相手の間にAIがある限り、彼らは遠い星に住む"異星人"のままだろう。
かつての私がそう感じていたように。

でも、彼らは異星人じゃなく、私達と同じ、生身の人間だ。

ただの交信ではなく、
しっかりと握手を交わしたいなら。
一緒に泣いたり笑ったりしたいなら。

途中の道のりが苦しくても、自分自身の力で、相手の星にたどり着く必要がある。
英語を学ぶ意味は、きっと、そういうことだ。

苦しんだからこそ、握手した手の温かさで、
相手が、自分と同じ人間なんだと感じられる。
それが、英語を話せる、唯一無二の喜びなのだ。


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たこやき日記
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