交流戦と亡き祖父との思い出
2022年5月29日ソフトバンクホークスVS広島カープ3回戦。自宅でテレビ観戦していた私は4回裏2死1塁、三森大貴選手の2ランホームランを見届けた瞬間に私の心の何かがポキッと音を立てて折れてしまった。2005年に始まったセ・パ交流戦を苦手としているカープは、ロッテ戦・ソフトバンク戦を終えて1勝5敗と散々たる結果となっていた。心の何かが折れた私はその後の試合結果を見て見ぬふりをしていた。そうして1週間が過ぎたころ、6月のカレンダーを見てふと思い出していた。6月9日は大好きだった祖父の11回目の命日だったと。
母方の祖父は球団誕生以来カープ一筋60年。若い頃は初代本拠地球場の県営球場まで足を運び、熱心にカープを応援していたそうだ。そんな祖父は広島県庄原市の山の奥にある農家の長男に生まれ、農業とタクシーの運転手の二刀流で一家の大黒柱として家族を支えていた。酒は飲まない博打もしない祖父の楽しみはカープをテレビやラジオで観戦することだった。私はそんな祖父が大好きで初孫ということもあり、とても可愛がってもらっていた。小学校の夏休みには祖父の家に泊まりに行きテレビ中継を一緒に見て、テレビ中継が終わると寝室に行き愛用のラジオで試合が終わるまで必ず聞いていた。時は1987年から1992年のカープ黄金時代、祖父は毎試合最後まで応援していた。
90年代半ば、私は思春期を迎えカープから距離を置いていた。だが社会人になった2000年頃に私のカープ熱が再びこみ上げてくる。私は旧広島市民球場に通い詰め、帰省した際には祖父と再びカープの話に花を咲かせた。カープの成績は低迷していたが祖父は変わらず最後まで応援していた。そうして通い詰めた旧広島市民球場が2008年をもって公式戦を終え2009年に待望の新球場が開業すると、私はこの年の9月に祖父を新球場へ招待することにした。祖父は何故か渋ったが、私が庄原の家まで送り迎えをする条件付きで来てくれることになった。
迎えた試合当日はデーゲームの為、朝早く自宅を出て往復4時間かけてマツダスタジアムに到着し弁当を食べながら祖父と初めて球場で観戦をした。試合は残念ながら負けてしまったが祖父は笑顔で「楽しかった」と言ってくれた。試合後グッズショップの前で私は「何かお土産買って帰ろう、なんでも買うけぇ」と祖父へ言うと、祖父が選んだのは一番スタンダードなカープ帽だった。内心どこでも買えるのにと思ったが、祖父は嬉しそうだったので心に留めた。
翌年祖父は病を患った。最初はすぐに良くなると聞かされていたが、大きな手術をして入院生活を送っていた。私は出来る限り見舞いにいき祖父を励ましカープの話を沢山していた。入院中も変わらずテレビとラジオで応援し入退院を繰り返しながら頑張ってきた祖父だったが、2011年6月9日祖父はこの世を去った。一報を受け私はすぐに庄原へ向かい安らかに眠る祖父と対面したが、亡くなった現実を受け入れることはできなかった。その後親族が集まり粛々とお通夜が行われる中、不謹慎ながら私はカープの試合状況がとても気になっていた。何故なら5月25日の西武戦から6月6日のソフトバンク戦まで悪夢のような10連敗をしていて、気が気でなかったのだ。2日の休みを経て迎えた6月9日西武戦の先発は、エース涌井投手で5月25日の試合でも完封されていた。試合が始まると私は携帯の試合速報を見ながら思っていた。祖父はきっと10連敗中も最後まで応援し続けたと思う。しかし連敗が止まることなくこの世を去ってしまったことは相当無念だったはずだと。私は今日は今日こそは絶対勝ってくれと祈るような気持ちで、携帯に表示される文字情報を追い続けた。
試合は5回を終わって3-1でカープがリードするも、涌井投手は粘りの投球を見せていた。そうして迎えた6回表に指名打者で出場していたプロ4年目の松山竜平選手が大仕事をやってのける。なんと涌井投手からプロ初本塁打となる2ランホームランを打ったのだ!この瞬間勝利を確信した私は祖父の棺のもとへ駆け寄り「じいちゃん今日は勝つよ! 松山が打ったよ! 」と涙ながらに話しかけた。愛用のラジオで松山選手のヒーローインタビューを一緒に聞いた祖父の表情は穏やかに見えた。
一晩明けた翌日は葬儀のため朝から続々と家の中に入れないほどの人が集まっていた。葬儀も無事に終わり出棺の時間が迫る中、参列者がお花や思い出の品などを棺に入れ涙ながらに別れの言葉を交わしていた。私の順番がきて祖父が愛用していた杖を入れたとき、ふとお土産に買ったカープ帽の事を思い出した。喪主である叔父に伝えると納屋の奥にあったと持ってきてくれた。私は帽子を見た瞬間感極まってしまった。なんと新品同然のピカピカな状態で保管されていたのだ。私はてっきり農作業で使っていたと思っていたが、祖父はせっかく孫が買ってくれた物だからと大事にしていたそうだ。私は涙をこらえながら帽子の後ろを折り祖父の頭に乗せた。その姿を見た祖父の友人が「カープの選手になったみたいじゃのう」と言った。その言葉を聞いた瞬間に私は声を出して泣いていた。どれだけ負けても心が折れそうになっても、カープを最後の最後まで応援し続けた祖父を私は誇りに思う。11回目の命日を迎えた日、私の心の折れた何かは元に戻っていた。