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【国民とは何か】精神的原理に基づく国民論

オススメ度(最大☆5つ)
☆☆☆

〜国民的結束を呼びかける古典的講演録〜

本書は国民論の古典として有名な一冊であり、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」と頻繁に比較される。
「ドイツ国民に告ぐ」は僕は未読であるが、こちらはナポレオン1世占領下のベルリンで発表され、本書「国民とは何か」は普仏戦争でパリ・ヴェルサイユがプロイセンに占領されるという屈辱(1871年)を味わった後の講演であり、いずれも民族的・国家的な屈辱のあと、国民的結束を呼びかけるという状況下において出されたものである。

フィヒテは「国民」の概念を人種や言語など明確に区分できるような基準に基づくのに対して、ルナンは精神的原理に基づいている、というのが巷で言われる対比だそうである。

そんな前情報を頭に入れて本書を読み始めてみた。


〜「国民の存在は日々の人民投票である」〜

ルナンは「国民とは何か」を論ずるために、まず「何が国民を定義するものではないか」を全体の7割ほどを使って論ずる。
結論から言うと、ルナンの考える「国民」は、人種、言語、宗教、利害関係、地理により定義されるものではない、としている。
特に人種と言語については、当時のフランスや他の国の状況をみて「すでに様々な人種や言語が混在している」としてその区分自体無意味なものと述べている。

では、国民とは何か。
これを定義するのが以下の有名な一文である。
「国民の存在は、日々の人民投票である」
これだけ読んでもイマイチピンとこない。どういう意味なのだろう?

国民とは魂であり、精神的原理です。実は一体である二つのものが、この魂を、この精神的原理を構成しています。一方は過去にあり、他方は現在にあります。一方は豊かな記憶の遺産であり、他方は現在の同意、ともに生活しようという願望、共有物として受け取った遺産を運用し続ける意志です。

上記の一文を読むと、すなわち国民の精神的原理を構成するのは、過去と現在なのである。

では、過去とは何か?

人間というものは、皆さん、一朝一夕に出来上がるものではありません。国民も個人と同様、努力、犠牲、献身、からなる長い過去の結果です。祖先崇拝はあらゆる崇拝のうちでもっとも正当なものです。祖先は私たちの現在の姿に作りました。偉人たちや栄光(真正の栄光です)からなる英雄的過去、これこそその上に国民の観念を据えるべき社会的資本です。

すなわち、祖先の歴史や文化が継承されて形作られてきたものを指すのだろう。
では、現在とは?

過去においては共通の栄光を、現在においては共通の意志を持つこと。ともに偉大なことをなし、さらに偉大なことをなそうと欲すること。これこそ民族となるための本質的な要件です。人は自ら同意した犠牲、耐え忍んだ苦痛に比例して愛するものです。自分が建て、譲り渡した家を愛するものです。スパルタの歌謡「われらは汝らの過去の姿なり、われらは汝らの今日の姿たらん」は、その単純さにおいて、およそすべての祖国の簡潔な讃歌なのです。

すなわち、継承してきた歴史や文化を継承していこうという意志を指す。

まとめると、自分の祖先が作り上げてきた文化や歴史を継承し、続けていこうとする意志が「国民」たる精神的原理である、と言えるのではないだろうか?
そして、その文化や歴史を継続させていくことを日々の生活の中で選択(投票)する個人の意志が、「国民」である要件なのだ、と僕は解釈した。


〜本当に「人種」は無関係なのか?〜

しかし、自分の解釈に矛盾があることに気づく。
自分の国の歴史や文化の継承する意志を「国民」の要件とするのであれば、冒頭にルナンが否定した「人種」による「国民」の定義は相入れないものとなる。現実的には、「人種」や「種族」を無視できなくなるだろう。
実際のところ、ルナン自身、人種による優劣を信じていたレイシストであることは、事実だったようだ。

そう考えると、僕の解釈が間違っているのか、ルナンの考える「人種」の定義が、今の感覚と違うのか。

うーむ、非常に短いテクストだったのだが、深く理解するにはかなりの時間が必要となると思われる講演録であった。

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