あこがれの大坊珈琲店
珈琲にはいろんな淹れ方がある。
ドリップ。サイフォン。フレンチプレス。などなど。
それぞれ抽出した珈琲の味には特徴があり、どれが一番おいしいというよりも、自分の好みやその日の気分で抽出方法を選んでよいと思う。
僕の好みはドリップ。
ドリッパーにセットされた珈琲豆にそっとお湯を注ぐと、モコモコとまるで生き物のように豆が膨らみはじめ、珈琲のよい香りがふわっと立ち上る。
しばらく蒸らしたのち、その膨らんだ豆を崩さないようにゆっくり丁寧にお湯を注ぐと、ポタ、ポタっと濃厚な珈琲の雫がこぼれ始める。
まるで儀式のような一連の流れによって心は静まり、淹れたての珈琲への期待感が高まる。
ドリップによる抽出方法は、豆の味やうまみをバランスよく引き出してくれるし、豆の挽き加減や量、湯の温度、淹れるスピードなどによっていろんな味を作り出すことができることも楽しい。
そして僕が昨年から気になり始めたのがネルドリップだ。
ネルドリップとは布製のフィルターをつかった抽出方法のこと。
ネルフィルターはペーパーフィルターよりも目が粗く、すっきりとクリアな味わいのペーパーと比べ、珈琲豆に含まれるオイル成分が多く抽出され、少しとろりとした滑かな舌触りと豊かな香りを楽しむことができる。
使用後は洗ったり、水につけて保存したりと、その取扱いを少々面倒くさく感じ、ずっと手を付けていなかったのだが、昨年末、試しに淹れたネルドリップ珈琲の感動的な旨さに衝撃を受けてしまった。
それ以来ネルドリップのことを調べ始めた。
調べていくうちにたどり着いたのが大坊珈琲の大坊勝次さん。
東京の南青山で38年間休むことなく自家焙煎、ネルドリップというスタイルを貫き通してきた「大坊珈琲店」の店主。
ネットで出会った大坊さんの珈琲を淹れている姿はとても神々しく、美しいカップに淹れられた珈琲はとろりと漆黒、珈琲のうまみを凝縮した特別な飲み物のような気がした。
大坊さんに会いたい!そして大坊さんの珈琲を飲んでみたい!
調べれば調べるほど、その思いはどんどん強くなっていった。
しかし、大坊珈琲店は2013年にビルの取り壊しにともない店をたたんでしまい、今やその思いは叶えることができない。
それでも調べていくと、大坊さんは閉店後、全国各地で手廻し焙煎やネルドリップのレクチャーを行っているということが分かった。
そしてなんと1月に徳島まで開催されるそのワークショップに運よく参加することができたのだ。
2020年1月某日。ドキドキしながらワークショップが開催される珈琲店のドアを開けると、店の奥に窓からの光を背に大坊さんが立っていた。想像よりも小柄な方だったが、白いシャツにモスグリーンのエプロン、スッとまっすぐに立つ大坊さんはまさに珈琲職人という雰囲気をまとっていた。ご挨拶をすると、とても優しく柔らかな挨拶を返してくれた。
僕は優しい味のする珈琲が好きだ。
珈琲には淹れる人の人柄が映し出される(お茶でもお花でも、なんでもそうだと思うけど)。大坊さんの珈琲は優しくもまっすぐな味がするんだろうなと思った。
手廻し焙煎の実演のあと、実際に大坊さんがワークショップの参加者に珈琲を淹れてくれた。
ネルの中の珈琲に糸のようにツーっとお湯を注いでいく。中心から外側へ、外側から中心へ、円を描くように、丁寧に丁寧にお湯を注ぐ。
大坊さんの周りだけ、静かで穏やかな時間がゆっくりと流れていく。
この日、ワークショップの参加者は約30名、スタッフも入れると40名くらいになっていた。
2種類の珈琲を淹れてくれたから、みんなにいきわたるまで約2時間くらいかかっただろうか。しかし、驚くのは大坊さんの珈琲を淹れる姿は最初から終わりまで全くぶれることなく、美しかったということだ。
38年間、毎日珈琲を淹れ続けてきた大坊さんの凄みを感じた。
そして大坊さんの淹れてくれた珈琲は一口飲むと「ほっ」とする。そして口の中いっぱいに珈琲のうまみが広がる。苦味の中にもかすかに甘みを感じ、静かで穏やかな気持ちになれた。
大坊さんの珈琲には優しさの中にまっすぐな柱がスッと立っているような表情があった。
僕がこんな珈琲を淹れられるようになるにはまだまだ修行と研究が必要だけれども、目指す目標のようなものが心の中に出来上がった。
ワークショップ終了後に大坊さんと握手をした。
毎日手廻しで焙煎をし、毎日ネルで珈琲を淹れ続けてきた大坊さんの手は、思いのほか柔らかく、つきたての餅のように温かくぽやんぽやんだった。
僕もこういう手を目指そう。珈琲の道は始まったばかり。