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不平等で平等な“運”の正体

こんにちは。さしみです。

今回は普段の生活の中でも漠然と使われる「運」というものの正体について書いていきたいと思います。

ラッキーなことがあった。もしくはその逆、アンラッキーなことがあったときにも使われる「運」という言葉。誰にでもランダムに降り注ぐ“それ”を神の見えざる力のようにあなたは考えていないでしょうか。

結論、“運は、運を掴む準備が整った人の元にしか降り注ぎません。”

いったいどういったことなのか。

例えば、修学旅行の班決めで好きな女の子と一緒の班になりたいとあなたは考えていたとします。班の定員はひと班6人。好きな子は既にA子とB子という仲良し女子3人グループで固まっている。けれど残りの3人を誰にするか探している。

そんなとき、あなたならどうしますか?

より確実に一緒のグループになりたいのであれば、A子、B子どちらかが片想いしている男の子をまず探し、その男の子と自分でグループを組みます。その状態が整った上で「一緒に班を組もう」と声をかけにいくことで成功率は跳ね上がります。

これは自陣だけでなく交渉相手にも味方を作り、数的有利が築けたおかげで交渉がスムーズに進んだ、といったからくりになっています。

この場合の運に当たる部分は、そもそも男女混合グループを認めるか否かという先生の判断のみです。男女完全に別々であればチャンスは0なので、言うまでもなくそれはそうですよね。

逆に言えば、その運さえ引ければあとは自力でどうにかできます。

・好きな子に嫌われていない(好かれている必要はない)
・A子、B子の片想いの相手を知っている
・片想いの男子と仲が悪くない(親友ならベリーグッド)
・6人グループが決まる前に動き出せる即決力を持ち合わせている

この4つの要素は全て運があろうがなかろうが関係なく、普段からの行いでどうにかできることです。

この4つの要素に気づけず先を越されてしまった別の男子グループはきっと
「運が悪かった」
そのひと言で自分を納得させるでしょう。
しかし実はそうではありません。偶然を限りなく必然まで近づけた上で、最後に「運」という最大の偶然を待っていただけにすぎません。

恋愛が絡む例だったので余計「そんなの打算的でかっこ悪い」といった意見がちらほら聞こえてきそうですが、実際恋愛は計算高い人が結果を出せるものですし、「過程がかっこ悪くても結果が出れば良くない?」と僕はそう考えてしまいます。


成功者のほとんどの人が口を揃えたように発する「自分は運が良かった」という言葉。それはその運を掴む準備を既に整え一番いい結果が出る場所でただ待っていたら上手くいったという風に言い換えることができます。

せっかくならあなたもそんな場所で運を待ってみませんか?


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