どうでもいい音楽(偽日記52)
わりかし簡単な手続きでエモくなって、乱暴な情緒で踊りだしかねない邪悪の人間なので、好きな曲こそあまり容易にきくことができず、だからしょうじきどうでもいい音楽をきくことのほうがおおい。なんかのアニメ曲(ゲーム?)のカバー(歌ってみた?)とかlofi-hiphopの曲名もわからないまま纏まった動画とか好きでない作曲家のクラッシックのまとめアルバムとか下手くそな素人のジャムセッションとかもしくはほんとうに唾を吐いてもゆるされそうな悲惨なjpop(つまりjpopですらない)とか……でもそれらが妙に輝く日だってあってそういうときは感受がバグっているのでもはやなにもきかないほうがよく、そこまで行き着いていれば音楽そのものごとどうでもよいところまで私の頭の中で移動していることになり、そこまでいったときの忘我感にときめく暇もなく訪れる集中!の!連続!が!たぶんなんかの脳汁のしばたきで水光のようだ!エウレカ!なにもないこと!からだが私のからだごと忘れること!視界の映像だけ私になること!とかおもう。
すごく長い改稿の、たぶん終わりのあたりに辿り着いており、それは2020年の私とか、2021年の私との交流で闘争でアマチュアリズム的なもののあでやかさをどうふりきったり恋は恋のままでいいじゃんといってしまうかみたいな大変。伝わった時点で言語ならば、それはどんな難語であれ語りなのであり、そもそもいくらなだらかに言い聞かせたって十全なコミュなんてない、ディスコミュだけがコミュを人間と人間のあいだで結びつけるのだから、じゃあ結局のところ肌より内が外界にむかっていくのなんて、変形しながらであり、そこに事実なんてほんのすこししかない、ならばどんな風景だって異世界とか騙し絵だってしっていたほうがまだゆるしたりゆるされたりしていいとおもう。
セグウェイの乗り方を、そういえば覚えた、友達といった施設にセグウェイがあって乗り、こけ、乗り、の繰り返しのなかで覚えた微細なからだの制御はあたらしくてサイエンスフィクションだった、つまりどこまでいってもからだだった。
まとまりのなさだけゆるがないのだとしたら、それが=でよくね?とさえ、投げ出せてしまう、オニユリを鳩がもってくる、オニユリは種子は作らないが、葉の付け根にムカゴをつくる、オルタナじゃん、だからこれは受胎告知のオルタナだよって、でもだからってそれを、交流のなかでわかってもらえるわけもないけど、わかってなくてもゆるしあえるのだけ希望じゃないかっていまはおもっていていい。
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