「9回裏ツーアウト永遠」(偽日記4)
2021 1/31-2/8 追想/日記
電気代を払うのがきつくなってきて、エアコンを止めたら部屋の中で息が白くなった。心配してくれた先輩がもう使わない古いガス式の暖房機をくれて、その先輩と仲の良い先輩が灯油をくれた。でもその灯油もあと一回分でなくなるので、寝る数時間前は布団に包まって耐える。いまもそうしている。宮城の冬はかなり応える。子供の頃はむしろ好きだったのだけれど。
月曜日に暖房機をくれた先輩が水曜の朝倒れた。脳出血らしい。33歳。去年結婚して、次の春には子供が生まれる。現状だと、たぶん男の子らしい。先輩の凶報をきいて、彼の死後まで想像がおよび、彼なき後の世界に取り残された母子を想い、なにもかもが不鮮明になり、私は彼女らを助けられるだろうか何かできるだろうかと考え、なんの意味もなくその日の昼食代を浮かせるために昼を抜いて夜を抜いて、だからといって支援できるような金は一円もない。
先輩からLINEが返ってくる。先輩は別に死んではいなくて、でも近日すぐに頭をひらいて手術をしなくてはならないらしい。先輩はかなり無理な働き方をしていた。年間の売り上げが1億くらいあった。地方の広告代理店で、1億となると、かなり手数の求められる仕事をこなしているということでもある。その先輩は新卒で入った時に私の教育係を担当してくれていて、そのときも朝5時くらいまで働いていた。無理が祟った。でも、うちの会社は無理をして売り上げを立てたところで給料は変わらない。良識と根性と能力のある人間が使い潰され、サボる能力と自分がサボった分だけ他人が苦しむということに想像を及ばせないセルフロボトミークソ野郎だけが甘い汁を吸う。
金がない。金がなく、金がない。金がとにかくなくて、金がないせいで、金がないばかりに俺はなにもできないし、こうやってこの町で一番寒い部屋のなかで凍っていて、思考もからだもぜんぶ、凍ってしまい、こんななんの意味もないテキストをベッドの中で書いて、それで何かの気を紛らわせていることを自覚しているから赦されるわけでもない!
金がない。誰にも恩を返せない。生活だけがあり、生活を超えたものが遠ざかっていく。
先輩がたおれる少し前、友達の金で飲んだ。5人ほどで集まり、地元の馴染みの店で。客は私たちだけだ。ここももうすぐ潰れるのかもしれない。店主とは仲が良くて、地元にいた頃は店を閉めたあと数人でドライブに出かけていた。売り上げは半減で、もう店を畳むか迷っているらしい。ツーアウトだ、と店主がいった。9回裏ツーアウト、出塁はない。
かなり仲の良い4人(私を含む)と、たまたまその日は馴染みない顔がひとつあった。4人のなかに元野球部がいて、その部活の仲間だった男だ。高校時代に話したことはなかったが、悪いやつじゃなかった。目がくりっとして、純そうな、つまり凝ったアイロニーとは無縁な会話をする、ふつうの元野球部。
そいつからききたくない話をたくさんきいた。徒党を組んで、はんば犯罪めいた、少なくとも私には赦しがたい行為に加担している話。彼は巻き込まれているだけのようなものだが、それでも私はあのときビールジョッキで頭を叩き割ってやるべきだった。私はできなかった。そんな突発性の暴力はとうに卒業していた。卒業した? 違う。逃げたのだ。そういうときに、倫理を超えて通すこころの機微に追いつく純粋なからだを失っていた。おれはもうただのしょぼくれた、金のない、なんの当てもない25歳でしかない。
こうして嫌な記憶ばかりずるずる追想してしまう。さっき母なる証明という映画を見たせいかもしれない。登場人物の母親が息子に農薬を飲ませて、自分も飲んで心中しようとした、というくだりがあり、それのせいだ。そこから部屋が暗くなった。ダメだ。親が子供を愛故に殺そうとした、とか。おれはダメだ。嫌なことばかり思い出すことになる。親の弱さを直視できない。子供のまっすぐ正しい追求の刃も。見ていられなくなる。
先輩は無事治って、帰ってきてくれるだろうか。明るく、フランクで、ちょっと馬鹿っぽいところもありながら、時には聡明で、そんな先輩のままで。そしてこの先の人生で、ずっとそうあってくれるだろうか。誰かに子供が生まれるたびに、おもうのだ。家庭というもっともポピュラーでありながら狂気や地獄を孕む箱を、しっかりと、明るく照らしてくれるだろうか。見たくないしききたくもない。どこかの家庭が崩れる気配や、その顛末を。
おれが母親の腹の中でだらだら寛いでいるとき、父親は無職だった。生まれる前からずっと綱渡りをしているようなものだ。大人になったいまこんななのはなぜだろう。9回裏ツーアウトが永遠に続くのか? そんなわけはない。ゲームは絶対に終わる。どんな結果かはともかくとして。けどたぶん生きている間は、続くかもしれない。そんなの嫌だ。私は抜け出したい。はやく抜け出す、という決意だけで腹が減って、減っても、だからって食うものがない。
『まあそんなに腹が減ったなら、これでも食えよ』と同居している蛸の蛸地蔵がいうので、私は蛸地蔵の8本ある足のうち交接腕いがいのものに噛みついた。うまい。蛸の8本のうち1本は性器なのだ。さすがにそれを食ってしまう気になれない。『別にいいけどな俺は』と蛸地蔵はいう。『子供なんてつくらないよ。子供なんてつくれるような、つくっていいような血は流れてねえんだよ』ふうん。そういえば蛸って輸血とかできんのかな。『は? なんで』いや、なんとなく。
「きてみる?」と元野球部のバカから電話がくる。「相席屋とマッチングアプリで捕まえて、酔わせて、そんで連れ込む。簡単。拘束具と、あと薬もあるから。こっちは男3。おまえも入れたら4人。部屋はふたつとってあるから、2対2に別れて……」いくよ、といって私は包丁とガムテープを鞄に入れて家をでた。口の中でまだ蛸の足が蠢いていた。蛸は、足でも考えられる生き物で、私が腹をすかして蛸地蔵の足を食べるたびに、ちょっとずつ蛸地蔵の頭は悪くなる。
帰ってきて、血を流していると、蛸地蔵が『俺も腹減ったよ』というので、じゃあと俺の小指を食わせた。ねえ、なんか変じゃね?『なにが?』お互いがお互いくってんのに、どんどんなくなっていくの。『ぜんぶうんこになるんだなあ』そっか。『食うのは奪うので、奪ったら交換じゃなくてな、ぜんぶクソになるんだな』そっか。じゃあそのうちなにもなくなって、そこでようやく終わりにできるんだね。
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