モラトリアム #1
「はぁっはぁっ……」
「おー頑張ってんな」
「汗が目に沁みて痛い……」
「ちょっと休んだら?」
「ふぅ……くたびれた……」
深夜2時を廻った頃だろうか、暗い山道から外れ更に奥深くの地べたで泥と草木に塗れているのが私と一ノ瀬だ。
ただひたすらに深く深く穴を掘ることを考えた。人の目も時間も彼女のことも気にしなければならないのだが、そう悠長な時間は残されていないのだ。少しでも深い穴を掘るのが優先事項であり、それ以外の思考は我が身と同様に泥にじっとりと塗れうまく身動きが出来なくなっているようだ。ただ今はそれでいい、ひたすらに深く深く穴を掘ろう。
そうして、己の中での及第点を満たした穴を見つめると一息つくため座り込んでしまった。一度座ると立ち上がるのには腰が折れる、重たい腰をそのままにしてふと彼女の方に目をやる。
「はは……大の大人が二人で何やってんだろうな」
「正確には一人と一体だけどね」
「ごめんね……こんな場所で」
「まだ謝るの? いい加減折り合いをつけな」
「それじゃ、さようなら一ノ瀬」
重たい腰を上げると一ノ瀬を丁寧に穴に落とし、別れを告げる。そして深い穴の底に眠る彼女に土をかけた。掘るのは大変だったが一度掘った土はとても軽く感じる。それは一仕事終えたという達成感からか、彼女の死体を隠したいという心の焦りからなのだろうか。私にはわからなかった。
「シャワー浴びたいな」
埋立地には付近の草木や石を上手い具合に被せた。これだけ骨を折る作業をしたところで時間の問題なのは承知の上だが、私は完璧主義ではないし第三者から見たら無意味に見える儀式的な部分が心の拠り所になっていたのだろうか。じっとりとまとわりついた泥を払い落とせてない今の思考回路では、これが精一杯だった。
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汗やら泥やら涙やらでグチャグチャになった全身に不快さを感じながら帰路に着いた。玄関入口の少し上にあるライトとフロアにある複数の蛍光灯に照らされ自分の影が二重にも三重にもずれて床に映る。影が重なった部分とずれた部分で濃淡が生まれており、小さいころからこの光景を気に入っていたことを思い出す。
一刻も早く家に入りたいのだが、うまく家の鍵が鍵穴に入らない。微かに震える手を見て呆れにも似た渇いた笑いが出る。
ようやく開いた扉の先には彼女のパンプスがこちらを向いて揃えてあった。真っ先に向かったのは浴室である。少し熱めのシャワーを頭から浴びると、じっとりまとわりついた泥が蕩けていった。心も体も清め、新品のタオルで濡れた身体を拭いた。浴室を後にして冷蔵庫から冷えた瓶ビールを取り出し居間へ向かう。
「おかえりー」
「ッッッ!?」
意味が分からない。まったくもって意味が分からない光景が眼前に広がっていた。
先ほど山に埋めた同居人、一ノ瀬が涼しい顔をしてソファでくつろいでいる。
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「…………」
ひとしきり驚き、騒ぎ、怒りや恐怖をごちゃまぜにした感情を一ノ瀬にぶつけた。しかし、暖簾に腕押しであり彼女はウンウンと変わらず涼しい顔で相槌を打っていた。
「ずっと話しかけてたのにあんた気づかないんだもん」
「ご、ごめん」
「逆に何で今聞こえるようになったんだろう」
「……」
幻覚でも幻聴でもなくたしかに彼女と会話ができている。ひどく酔っぱらっている訳でもない、何しろ冷蔵庫から取り出したビールはまだ手に握られている。
「あんたも色々と探ってるようだけど、私だって今の状況を把握してるわけじゃないんだぜ?」
「一ノ瀬……私を呪い殺しにきたの?」
「話を聞けよ、別に唯のことを怨んじゃいないよ、不思議なことに」
「でも、私はあなたのことを……その……」
「まぁかなり痛かったけどさ、私にも落ち度はあったわけだしこういうのよくある話じゃん。ついカッとなって、ってな」
「…………」
目の前の人物に殺されたにも関わらず、意外なほど冷静で話の通る彼女を前に、私は頭を抱える。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
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場所は変わらず時だけ遡り半日前、千葉の都市部に位置するここ林ハイツの狭いリビングで私と一ノ瀬は堕落した日々を過ごしていた。シェアハウスということもあり家賃を二人で割るとそう大した金額にはならず、アルバイトやこれまでの貯金を崩してダラダラと毎日をやり過ごしてきた。同居人の一ノ瀬についてもほとんど同じだった。
きっと彼女が正社員登用されたりビシッと働くようになったらこのシェアハウスも解消なんだろうな、と考えている。
隣にいるのは、燦々と光り輝く太陽よりも仄暗い灯みたいな存在の方が気が楽だ。こちらの惨めさがくっきりと見えてしまうからだ。
私の名前は、相良 唯。二年前にグラフィックデザイナーの仕事を辞めてからはフリーランスで生計を立てている、精密に言うと貯金を崩す月もあるため生計は立てれていない。どうにもこうにもならない怠け癖のため、体調不良を理由に仕事の締め切りを延長したりバイトを休んだりしているのが理由だ。
同様に同居人の一ノ瀬も、フラフラと定職につかず折半分の家賃も払えないことも多々ある。それについて不満がないとは言えないが、私も彼女も経済的余裕がないため仕方ないと自分を納得させている。
一ノ瀬も私も今日は予定がなく、外出する気力もないため我が家でゴロゴロと惰性をむさぼっていた。
一ノ瀬と私はL字型のソファに寝そべるように座ってスマートフォンとにらめっこしている。こんなありふれた日常から一変、殺人事件に発展するなんてこの時は微塵も思っていなかった。
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