SNSで世界は本当の“小さな世界”になった?(キャンセルカルチャーについて考える)
先日NHKで「思考のオルタナティブ」という番組が放送されていました。
内容的にはサブカルチャー(オタク文化)の広がりと現代につながる思想や文化的背景に触れた番組でした。
(理解度が足りず誤っていたらすいません)
その中でキャンセルカルチャーについて触れられていました。
キャンセルカルチャー、確かに聞く言葉ですが、あまり意味はわかっていなかったりします。
せっかくの機会ですので、(上記の記事で大体まとまってしまっていますが)自分なりにキャンセルカルチャーについてまとめと考察をしてみたいと思います。
キャンセルカルチャーとは?
平たく言えば不買運動のように特定の団体・個人に対して糾弾や排除を行うこと / 呼びかけることを指しているようです。
また、現在進行系の事柄だけでなく過去の出来事に関して掘り起こして取り沙汰することも指しています。
“炎上”とも似ていますが、キャンセルカルチャーにおいては糾弾や排除の結果で売上の低下や謝罪・役員の辞職などの明確な不利益 / 制裁を目的としている点が異なるようです。
そもそもこれ、SNS以前にもあったよね?
SNS上で発生するこういった反対運動や抗議運動をキャンセルカルチャーとしていますが、形は違えど似たようなことはSNSの無い時代にも発生していたように感じます。
「日本は一度失敗したら、やり直せない社会」という言葉を聞くことがあります。
これは過去に犯罪に手を染めてしまい前科がついた人や、不祥事を起こした有名人がもう一度社会の中で生きようとした時に受け入れられにくい世相を指した言葉です。
全てのキャンセルカルチャーで行われているわけではありませんが、過去の失敗を掘り起こして社会から排除しようとする運動は、まさに「やり直せない社会」の構築のように見えます。
日本での「やり直せない社会」というのは島国として狭い社会からくる全体主義のような部分が根底にあるのかな〜と考えています。
皆と同じ規律のなかで、適合しない人間には罰を与えて社会性を維持する、ということかな?と思いますが、良し悪しは置いといて地政学的に自然発生した社会のあり方なのかな〜と思っています。
(社会が狭い要因に公用語が英語ではないことなどもあるかもしれませんが)
しかしキャンセルカルチャーを見るに、この「やり直せない社会」というのがSNSを通じて世界的に発生しているんだな、と感じます。
SNSがつないだ”小さな世界”
そもそもSNSが無かった頃、小さな社会では自分の隣人や生活圏内に居る近しい人にだけ意識を向けていればいいような状態でした。
近くに居る人が足並みを乱すような事をしたり、悪いことをした人であれば非常に困る部分がありましたが、隣の県や国に居る人が何をしていてもこっちに来なければなんともない、というような状態です。
それこそ遠いところで仕事している有名人が何か言っていても、社会のイデオロギーと違った考えを持っていても、実際の自分の生活には関係ないはずです。
それなのに「こいつはけしからん!」と義憤に駆られてしまうのは、SNSによって多様な人が”隣人”となるような社会になったということなのかも知れません。
世直しか、あるいはリンチか?
「やり直せない社会」になっていく、というとネガティブな側面をとりざさしている形となりますが、キャンセルカルチャー自体は賛否の分かれるものとなります。
良い面としては、今まで隠れていた悪しき習慣や既成概念に対して一石を投じ、社会変革を早急に促す側面があります。
しかし悪い面としてはやはり「やり直せない社会」への加速や、必要以上の罰(オーバーサンクション)への発展が考えられます。
キャンセルカルチャーの例として東京オリンピックにおいてアーティストの小山田圭吾氏が過去のイジメ(インタビュー発言)について批判を受け、辞任に追い込まれた件があります。
このイジメの件については20年近く前から2ちゃんねるでコピペが貼られており、コーネリアスの楽曲を聞いたことのない僕でも東京オリンピック以前から既知の内容でした。
(そのため小山田圭吾氏の起用に関しては内心「へー、あんまり昔のことって気にしないんだなあ」と思ってみていました)
様々な見方がありますが、一つの側面で見ればやはり世界的な祭典に過去のこととはいえ倫理性を欠く人物を起用することにリスクがあるという部分もありますし、今更20年も前の事で叩いても、という面もあります。
また、インタビュー当時に悪趣味ブームであったことなども指摘として挙がっています。
(実際90年代〜2000年初頭にサブカル・アングラ誌が台頭したり、某○体写真家の方が活動をしていたりなど、そういった背景は事実あったものと思います)
また、別の例として三浦瑠璃氏の発言が発端となったAmazonの不買運動があります。
これはテレビ番組で徴兵制の導入を主張した三浦瑠璃氏の発言に対し、起用しているAmazonをターゲットとした不買運動が起きたものとなります。
この点に関して賛否が巻き起こり「起用タレントと企業は分けて考えるべき」「いや、誰を起用するか決めてるのは企業だし関係ある」といった論点で著名人含め意見が飛び交いました。
この2つの件の良し悪しについては個人によって分かれると思います。
これらを”社会として良い方向に向かっている”と考える人もいれば”必要以上のネットリンチ”と考える人も居るでしょう。
あなたの意見はどこにありますか?
気をつけないといけないのは”キャンセルカルチャーを扇動している人物の意見とあなたの意見は違う”ということです。
SNSで明確に意見を表明していたり、わかりやすく問題点を指摘していたり、自分の中のモヤモヤを言語化している意見を見ると、ついつい「そうだそうだ!」と賛同したくなったり溜飲が下がるような気持ちになります。
しかし、あくまで「それはあなたの意見ではなくその人の意見である」という点は忘れてはいけません。
悪く言えば、あなたは”怒らされているのかもしれない”ということです。
特にX(Twitter)が収益化できるようになって指摘されるようになりましたが、怒りを呼び起こすことは人間を動かしやすかったり注目を集めやすかったりします。
そのため、ワザと大げさに物事を発信したり、嫌な気持ちにさせてインプレッション稼ぎや話題性を持たせようとすることもあるわけです。
キャンセルカルチャーにおいても同じことが言えます。
確かに悪しき習慣や既成概念を排斥し世の中をよくしようとする運動もありますが、それを扇動しようとしている人とあなたの意見は根底では異なっている可能性もあるのです。
例えば先の例で、Amazonの商品を買わないことは徴兵制に反対することにつながるわけではないということに気をつけないといけません。
徴兵制に反対したいのであれば、ちゃんと選挙で徴兵制反対を掲げている政治家・団体へ投票を行ったり、三浦瑠璃氏に対する意見を個人攻撃ではない形で発信する、などが本来行うべき行動になります。
(もちろん三浦瑠璃氏を起用するAmazonが嫌いだ!と思われるのであれば、Amazonの不買運動といった形でもいいかもしれません)
なんとなく義憤にかられて「いいことしたい!運動に参加しよう!」となってしまい、明後日の方向に石を投げるような事にならないようには、注意が必要ですね。
個人の意見として
キャンセルカルチャー自体の良し悪しというのはなかなか画一的に論じることは難しいですし、一つ一つに是々非々で考えていく必要はあるかと思います。
あまりに過剰になればSNSやネット上で発言・発信すること自体がリスクになり、集合知としてのSNS・インターネットは不活化していくのかなと思います。
キャンセルカルチャーが過剰になれば、最終的にSNS・インターネットがお互いがお互いを監視する様な場になっていまいます。
中国における監視社会的な構図には違和感や拒否感を感じるのに、SNS・ネット上ではその意識が薄れる、という点は気をつけないといけません。
一歩間違えれば、自分自身も過去を掘り起こされ足元をすくわれるかも知れない。
そういったビクビクした世の中にはならないでほしいな〜と、個人的には思います。
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