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ショートショート「コイントスの神様」
村瀬は、山奥の神社の境内に立っていた。
「表ならAの道、裏ならBの道」
この神社では、決断に迷った者が神様にコイントスをお願いし、その結果に従うのが昔からの慣わしだった。
村瀬は人生の岐路に立たされていた。転職すべきか、現職に留まるべきか——どちらを選んでも後悔しそうで、結論を出せずにいた。
「……俺にはもう決められない。神様、どうか導いてください」
そう言い、村瀬は神様に頭を下げた。
神様は静かに頷き、銀色のコインを取り出すと、ゆっくりと指先で弾いた。
カチンッ
硬貨が回転しながら舞い上がり、日差しを受けてキラリと光る。
村瀬は固唾をのんでコインの行方を見つめた——が、その瞬間、コインは空中でふっと消えた。
「……え?」
村瀬は目を見開いた。周囲の参拝者も驚きの声を上げる。
「こんなの、初めて見たぞ……」
「もしかして、神様の気まぐれか?」
村瀬は混乱した。これはどういう意味なのか? まさか、どちらの道も選ぶなという啓示か? それとも、もう何を選んでも意味がないということか?
視線を上げると、神様はただ静かに微笑んでいた。
その表情を見た瞬間、村瀬はふと気づく。
——「これは、自分で決めろということか……?」
神様は、村瀬の決断を委ねたのだ。誰かに答えを押し付けられるのではなく、自ら選ぶべきだと。
村瀬は、しばらく境内で立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと歩き出した。
「……ありがとう、神様」
彼は、はっきりとした足取りで神社を後にした。
***
ふと振り返ると、次の参拝者が神様にコイントスをお願いしていた。
——そして、そのコインは普通に地面に落ちた。
村瀬は思わず苦笑した。
「もしかして……神様、ただの気まぐれだったんじゃ?」
真実は分からない。
けれど、村瀬の足取りは、もう迷ってはいなかった。
(了)