ぼくらはどう生きたいか。
どう生きたい?
そう聴くかれてパッと答えられる人はそういないだろう。
「とりあえず大学は卒業したいし、友達とも楽しくやってたいし、やりがいのある仕事をしたい。けど、どう生きたいかって言われても、そんな大きな事分からない。」
っていうのが正直なところだと思う。でもじゃあ、
将来の夢はなに?
と聴かれると、すこし具体的にイメージできる人が多いんじゃないだろうか。それが職業の人もいれば、家族のことや暮らし方の人、手に入れたい物の人とか、色々だと思う。
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自分はナニモノか。
今日、とある講義をオンラインで受けていて、教授が
社会の中で、どう自分の欲求を満たすかが大切なんだ。
と言っていた。確かに、全くその通りだと思う。
社会に求められた人生、誰かの(多くの場合は親のなのかな。)人生を生きていても自分の心はポッカリ穴が開いていて空しいだけだ。でも逆に、自分の欲求を満たすだけなのも同じくらい空しいだろう。だから、その間でのバランスが重要になってくる。
社会から(他人から)求められているものと、自分の欲求、それが重なる部分で人生をおくれる人が、一番幸せになりやすいんじゃないだろうかと思う。(あくまでも”なりやすい”だ。)どちらかに偏ってしまうと、自分を見失ったり、寂しくなったりする。どこでバランスをとるのがベストかは人それぞれだと思うけど、じぶんなりに意識的にバランスをとれたらいいなと思う。
社会から求められているものはある程度分かりやすい気がする。でもじゃあ、自分の欲求って何だろう。自分はナニモノなんだろう。
好きな自分と、嫌いな自分。
ぼくには、自分の好きな部分、誇りに思っている部分がたくさんある。でも同じくらい、嫌いな自分、隠したい部分もたくさんある。多分嫌いな自分の方がすこーしだけ好きな自分を上回っている。
このぼくが主観的に自分の事を好きとか嫌いって思っている部分は、他人からはどう見えているんだろうか。自分で好きだと思っている部分を同じように好きだと思ってくれている人もいれば、嫌いだと思っている人もいるだろう。その逆もしかりだ。でもその自分の好きな部分も嫌いな部分も含めて、自分っていう人間をつくり上げている事だけは確実に言える。
そんな事を考えていたら、自分の好きな部分が目立って、自分の嫌いな部分は目立たないような生き方ができたら楽しそうだなぁと思った。
自分からも他人からも、見える部分はその時々で変わる。どういう自分でいられたら、より自分の事を好きになれそうか、より周りの人が自分の事を好きになってくれそうかを考えたいなと思う。
どう生きたいか。
じゃあどう生きたいか。そこが問題だ。
ぼくは、何かモノに焦点を当てるよりも、どういう自分で在りたいか、どう周りの人と繋がっていたいかに焦点を当てて考えたい。モノは、多くの場合手に入れられる、実態のあるものだ。それはお金かもしれないし、ずっと欲しかった物かもしれないし、何かの役職かもしれない。そういったモノは、ぼくにもたくさんある。
でも果たして、それらを手に入れないとぼくは幸せになれないのだろうか。逆に、それを手に入れさえすればぼくは幸せになれるのだろうか。
そんなことは無いと思う。
ぼくはその先にある、目に見えない、実態は無いけど、なんだか自分にとって大切そうなことに焦点を当てたい。
稼いだお金を使ってNPOなどの支援活動をしたい、自分の子供が何かに熱中している姿を見たい、校長になって生徒ファーストな学校運営をしたい。そして更にその先にあるものに。
たぶん、「どう生きたいか」に対する答えは、目に見える、実態のあるモノの先に答えがある気がしている。自分の好きを社会が求めてくれ、増幅してくれる、その先に。そしてぼくはきっと、モノの事は忘れて、実態は無いけど大切そうなものに向かって、これからも生きていくんだと思う。
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~おまけ~
こんな僕の拙い文章よりも、「greenz.jp」というメディアの元編集長、兼松佳宏さんの『beの肩書き』を読んだ方がよっぽど分かりやすいと思う。(ここまで読んでくれた人に失礼かな、、笑)
こちらからそのさわりが読めるので、ぜひ参考にしてみて欲しい。