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僕たちはきっと"愛"という凶器を無意識に振り回している。

最近、僕は"愛"というものが怖い。というのも、視野の狭い愛は、誰かを傷つけてしまうから。僕が良かれと思って形にした"愛"は、第三者からしたら”凶器”に見えているのかもしれない。そんなことを時々思う。

何を言いたいのか全く分からないと思うので、いつも通り少し長くなってしまうけど、僕がこう感じるようになった前提から書いていこうと思う。

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宮野くんを見ている宮野クンがいる。

僕(宮野くん)にはいつも僕の事を観察している宮野クンが背後にいる。そいつは僕の事を観察しながら、ちょくちょく無責任に口出しをしてくる。葛藤を引き起こす天使と悪魔的なものなのかもしれないけど、宮野くんと宮野クンの意見は必ずしも対立してる訳ではない。むしろ、宮野クンは意見を持ってるというよりは、色んな事を聴いてくる。

「本当にそれでいいの?」
「さっきの発言はなんでしたの?」
「あれ見えてる?」

といった具合に。

この宮野クンのせいで、自分の決断に自信を持てなくなったり、自分の言動を振り返って落ち込むことが多々ある。でも逆に、こいつのおかげで色んな事に気づけたりもする。

「あ、今こいつ自分の気持ちにウソついたな。」
「今の俺、こんな風に見えてるな。」
「今の言葉、こいつはこう感じたな。」

といった事が、ほぼリアルタイムで、しかも複数視点でなんとなく分かる。そんなだから、最近は人と話すのが結構怖い。僕は基本能天気なのと、自分の中にある暗い部分を表に出さないから、全然そんなイメージないと思うけど。

そんな感じで、僕には常に宮野クンという"第二の僕"がいるので、他の人の気持ちにはかなり敏感なんだと思う。特にここ一年くらい、一対一での事よりも、複数人の中で生じるズレにはすごく敏感になった。それが故に、「僕たちは"愛"で無意識に人を傷つけているのかもしれない。」ということが無性に気になってしまう。でもそれが最近自分のブレーキになってる気がして、自分の考えの整理も兼ねてこのnoteを書くことにした。

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”愛”は光になる。

この前の記事でも触れたけど、”愛”って僕たちが生きていく上ですごく大切なものだと思う。それが何なのかは説明できないし、分からないけど、とにかく大切だってことは言いきれる。

この”愛”という不明確なモノは、僕たちを照らしてくれ、温めてくれる。”愛”を受け取ることで、「自分はここにいていいんだ。」と思えるし、なんだか心がポカポカして嬉しい気持ちになる。そして不思議なことに、心がポカポカするのは受け手だけじゃなくて、贈り手もポカポカするという、魔法のようなことが起きる。

"愛"は、可能な限り色んな人に、色んな時に贈った方がいい。贈るって言っても、プレゼントみたいに何か目に見えるものをあげようっていう訳ではない。「ありがとう」をしっかり伝える、SNSで共感した投稿にいいね!をする、友達をランチに誘ってみる。そんな日常にありふれた行動の一つ一つが、愛の形だと思う。

”愛”を贈ることは、いつだって自分のためでもある。”愛”を贈ることで自分もポカポカできるし、すこししたら自分に返ってくる。もちろん、贈り先から返ってくることもあれば、思いがけないところから返ってくることもある。こうやって、"愛"を循環させることで僕らは照らされているし、その光に向かって進んでいこうという原動力にもなる。

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光の後ろには必ず影がある。

でも、どんな薬もそうであるように、”愛”も万能薬ではないし、副作用だってあるんだと思う。”愛”によって、ある部分を照らすことでその後ろにはどうしても影ができてしまう。正確には、影ができるのではなく、ただただ照らされた部分への明かりが増えただけなのだけど。けれども、人間という生き物はどうしても周りと比べてしまうから、ある部分が明るく照らされると、そうでない部分は暗くなったように感じてしまう。

この「暗くなったように感じる」現象こそが、”愛”が”凶器”に代わる瞬間だと思う。この、”愛”と表裏一体の”凶器”ほど鋭いものを僕は知らない。そして一番恐ろしいのは、その凶器を振り回してる側は、凶器をふり回してるという意識が全くない場合がほとんどだということ。むしろ”愛”を振りまいて、いいことをしてると思っているから(もちろんそれは正しいし、全然悪くないと思う)、どこにも歯止めが効くポイントが無い。ここでもし少し意識の範囲を広げられたら、その”愛”が”凶器”に見えてる可能性も見えてくるかもしれない。その上で”愛”を振りまけたら、その”愛”はより素敵なものになるのだろうなぁと思う。

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あまりに抽象的な話をしてしまったから、少し具体的な話もしておこうと思う。一番分かりやすくて、感覚的に近いのは「嫉妬」じゃないかと思う。他人に”愛”が集まっていたり、光が照らされていると、どうしても嫉妬してしまう。”凶器”とまではいかなくとも、ある特定の人に愛や光が集まる事で、他の人は嫌な思いをすることは往々にしてあることだと思う。

もう少し違う話をすると、例えば「保守派」と呼ばれる人たち。彼らに対して、”愛”のある人たちって認識を持っている人よりも、どちらかというと攻撃的なイメージを持ってる人の方が多いと思う。でも視点を変えてみると、彼らだって今までの価値観を大切にする人達にとっては、”愛”があり、自分たちの価値観を守ろうとしてる人なのかもしれない。

最後にもう一個例をあげると、「~したらいいじゃん。」というアドバイス。より良い人間になるため、より良い行動をとるために、未来の伸びしろを照らしてあげられる。これは”愛”のある行動だし、アドバイスしている側は100%の”愛”でやっているのだと思う。これがめちゃくちゃ素敵なことなのは言うまでもない。けれど受け手からすると、もしかしたら「未来を照らしてくれている」ではなく、「過去に照らす部分はない」と受け取ってしまうかもしれない(メンヘラと思われるかもしれないが)。

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僕たちはどう生きていくか。

余計こんがらがった人もいるかもしれないけど、”愛”が凶器に代わる瞬間は結構日常に溢れているんだと思う。特に”愛”だと思って振りまいてる時はなかなか気づけないから、余計に厄介だ。

最近よくSNSでもみるコロナに関する投稿。「この人はきっと”愛”でこの言葉たちを並べたんだろうなぁ」と思いつつも、「SNSで不特定に発信することで色んな人を傷つけてそう、、、」という投稿がとても多いのだ。

「外出自粛してください」「こんな状況でも営業続けるなんて危険」「コロナに便乗するなんて不謹慎」きっと読んでくれている人の中にも、こんな投稿をしたり、見た人はたくさんいるだろう。きっとこれらは、誰かを攻めたくて発した言葉というよりも、誰かを守りたくて発した、”愛”のある言葉なんだと思う。けど、その発信先、発信の仕方によって、色んな人を傷つけてしまっている可能性があることは、個人的には是非考えて欲しい。「やりたくてやってている訳じゃないかもしれない。」「やむを得ない事情があるのかもしれない。」「一見危険な行動でも、それが誰かの役に立っているのかもしれない。」そんな想像力を働かせて欲しい。そうやって「許しあえる」社会になったら、色んな人にとってもっと生きやすい社会になるんだろうなぁと僕は思っている。

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