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【令和でも、義理人情。】

僕は、義理人情が好きです。
そして、出来る限りですが
それを自分でも実際に行うし、
大切に生きているつもりです。

それでも他人から見たら

『お前、全然、義理人情出来てねえよ!』


と言われてしまうかも知れませんが。

義理人情って一体なんだよ?

という事ですけど。

約束を守る、とか
仲間を見捨てない、とか
優しくあれ、とか

色んな義理人情の解釈があると思うんです。

それは、人それぞれの中に
それぞれの義理人情の在り方があると
思います。

そこは僕も『こうだ』と言葉にするのが
難しい線引きというか
抽象的な部分もあるというか、…
感覚みたいなところもあるんですけれど。

ただ、今、ひとつ
パッ、と思い付いている事を言うならば

落ち込んだヤツを見捨てない。



っていうのがあります。

人間、誰でもある人が調子の良い時には
寄っていったりします。

しかし、その人が何かで失敗したり
落ち込んだりして
病んだり、堕ちたりすると

一斉に多くの人が離れたりします。

それをしないって事ですね。

勿論、距離感って大切だと思っていて
落ち込んだ人が話しかけてほしくないとか
一人にしてほしいとか
そういう雰囲気ってあると思っていて

そういうモードだったら
近付かない事もあります。

けど、それこそ、SOSを確実に
出していたら
寄っていってどうにか浮上出来ないか
寄り添ってみる、っていう。

それって

【泥をかぶる】って事だと思ってるんです。

泥をかぶる覚悟や器があるか?
という事なんです。

泥というのは、嫌な事だったり、
損する事だったり、
面倒くさい事だったり、
自分がダメージを負う事だったり、

そういう事ですね。

勿論、普段、何にもない時に
わざわざ自分から泥に飛び込んでいかなくても
いいと思いますが
(ただ、泥をかぶると器はデカくなると思う)

仲間が苦しんでる時に一緒に泥かぶってやる、
または代わりに泥かぶってやる事が
出来るか、

というのが

最後の決め手になるのではないかと
僕は思ってるんです。

人間力ってどれだけ泥かぶって

来たか、かなって。


僕は長男ですし、もうずっと泥かぶって来ていて
泥んこになるのも全然平気なんですよ。

『ハイハイ、もう全部、僕のせいで
いいですよ』って。

それでも、自己否定して苦しむとか
そういう事ではないです。

ある種、喜んで泥を喰って来ました。

人間力って、言葉には表せないですが
その人と会ったら感じ取る事が
出来るんです。

この人は泥をかぶれる人かどうか。
それは雰囲気というかオーラというか
そういうのに反映されると思います。

すごい恐ろしいというかハッキリしてるのが

ある程度、大人になって来ると
みんな他人を観る目が肥えて来ます。

歳を重ねれば重ねるほど
いくら表面を取り繕っても、いい顔しても
全部、すぐバレてしまうんです。

1回では分からなくても
2回、3回と会って
同じ空間を共有して、一緒に活動したり
会話したりしていると

本性なんてすぐに分かります。

ですから、僕はもう社交辞令的な事とか
お世辞とか、社会人的なアレやコレや
みたいな立ち居振る舞いというのは

もうほぼやらないんです。
ほぼ、というかやってない(笑)

それが非常に生意気にうつる事も
あるんだろうな、と思います。

ですが、義理人情だけは…
というか泥をかぶる覚悟というのは
ずっと持って生きてるんですね。

あとは、それで周りの人が
僕をどう判断するかってのは考えてないです。

他人に、僕が義理人情を持ってる事が
伝われ!、とも思ってないですしね。
(それってすごくダサいでしょう)

しかし、なぜワザワザこんな事を
書いたかってのは

令和になろうと何時代になろうと

義理人情が最後の決め手になるのは
ずっと変わらないだろうな

と思ったからです。

義理人情が無くなったら
世の中、やりたい放題になっちゃうんですよ。

ウソに裏切りに悪口陰口なんでも
アリの世の中になっちまう。

自分さえ良ければ他人はどうでもいいって
なっちゃうから。

それをやってる連中がどこかに居て
日本をどんどん破壊して来た訳です。

それって得してる様で、結局、損してる。
損してるというか、
全員で地獄に向かって行ってるから。

そういうのには加担したくないと思うから。

そういう足の引っ張り合いをずっとしてる
様な地獄というのは

泥をかぶるよりも、ずっとヒドイ
世界なんですね。

なら、泥かぶって
蓮の花みたいに咲いてやるって。

そういう事なんです。

今回はここまでです。
ありがとうございます!














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