”すごいこと”をやらなくても別にいい空気感を作りたい話
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「経済的に成功することが偉い感じになりすぎちゃう??」
お金が貝殻だった時代って、きっと
「貝殻の量 ≒ 人からの感謝の量」
だったんだろうな、と思うんです。
山の村の人が、海の村の人から魚をもらう、
そのお礼に「今度は猪の肉をあげるね」という印として、貝殻を渡していたんだろうな〜と。
ただ、今はどうなんでしょう??
お金、そんな感じでしょうか??
資本経済ゲームのルール
保育・教育・介護・農水産など、いわゆる「エッセンシャルワーカー」にスポットライトが当たることが多くなりましたが、彼らに支払われるお金の量は、お世辞にも良いとは言えません。
対して、例えば不動産業、金融業、卸売業などは平均給与が高くなっています。
ぼくは、この差異は仕方ないと思っています。
理由は、「それが資本経済というゲームのルールだと思っているから」です。
「利益とは差異である」
どこで聞いたのか忘れましたが、ぼくはこれが一番わかりやすい表現だなと思っています。
売上と費用の差異はもちろんのこと、「情報量の差異」「技術力の差異」「使える時間の差異」などなど、差異を埋めるために僕たちはお金を払っています。
不動産屋さんには自分との専門知識や情報量の差異に対して手数料を支払い、銀行には使えるお金の量の差異に対して金利を支払っていると言えるでしょう。
一方で、例えば学校の先生、介護士、保育士の方々と自分の間にある「差異」を感じる人は、あまり多くはないのではないでしょうか?これがエッセンシャルワーカーの給与が高くない理由なのだと思っています。
資本経済のルールに従って、当然のように、人が差異を感じる業種・職種の人の給与は高く、そうでなければ給与は低くなるのだと。
経済格差も同様です。お金があればあるほどお金を増やしやすい、というのは資本経済のルールなので、格差が出るのはある意味「このルールでやれば当然そうなる」という程度のことでしかないと思っています。
問題は、「お金を持っている人の方が偉いしすごい」と思ってしまう、我々の感覚の方なのだと思っています。
「お金」とかいうモノサシ、強くなりすぎ問題
例えば、見ず知らずの相手だとしても、「この人は東証一部上場企業の社長です」と言われると、自然と他の人より丁重に扱わなければいけない感覚になったりしないでしょうか?
ここで言いたいのは、そういう考え方がヤマシイとか、そういうことではありません。
資本主義は悪だ、ということでもありません。
ただ、それほどに、資本主義というゲーム、ないし、お金という物差しが強くなりすぎてしまった。
本来は、サッカーが好きな人、野球が好きな人がいるように、もっと別のルールのゲームがあっても良いハズです。
なんなら、生きている以上何らかのゲームに参加しないといけないのであれば、人の数だけゲームがあっても良いハズです。
ただ、資本主義的なゲームは、単純でわかりやすく、広まりすぎてしまったため、あたかもこの世の唯一のルールであるかのように錯覚するほどの存在になってしまいました。
「自分なりの在り方」探しやすい空気感作りたい
ぼくが目指しているのは、この支配的な空気感の払拭です。
いくつかあるモノサシの1つがお金でもいい。ただ、「いくつかあるモノサシの1つ」と呼べる程度に、他のモノサシが欲しい。
その「他のモノサシ」は、必ずしも「お金」といったような名前がつかなくてもいいのですが、ただ、みんながお金のことを「まぁそれも1つのモノサシだよね」と直感的に感じるようになったらいいな、と思っています。
そのためには、先ほども出てきたように、「自分だけのゲームと、ルールを持っていても良い」という空気感、
また、「勝手にやりたくもないゲームに強制参加させられるのは良くない」という共通理解を作ることが重要だと思っています。
そんな空気感に繋がるような事業に取り組んでみたい、という気持ちが年々強くなってきたのですが、かといってピッタリハマる会社が見つからない。。。というのが、仕方なく創業しようと思った理由なのでした。
「じゃぁ何すんの」という話はまた別途!