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【考察】書籍『女になれない職業』★読めば心に火がつく。

年末年始にちょうどいいんじゃないかと思いまして、今年の春先に買った本ですが、折を見てまた読んだりしています。

痛快なんですよ。
読めば心に火がつきます。

男社会に挑んだ映画監督・浜野佐知の人生をかけた戦記!
渾身の12万字に監督作品リスト、多数の記録写真を収録し堂々刊行。

ピンク映画から一般映画に転身した男性監督の多くは二度とピンク映画に戻って来ない。だが、私はこの第一作が評価されてもピンク映画を撮り続けた。それが私の「職業」だったからだ。 そして、私の撮るべきテーマは、ピンク映画だろうと一般映画だろうと変わりはなかった。 「女の性を女の手に取り戻す」 これが私の映画人生をかけたテーマだった —(序章より)

『女になれない職業』

1.女には無理だ。おとなしくしていろ。

読売新聞(令和4年12月4日・日曜)にも書評が掲載されていて、これがまたかっこいい文章なので、引用させていただきます。
http://korocolor.com/news/202212-post-664.html

300本超のピンク映画、そして「第七官界彷徨ー尾崎翠を探して」を始めとする一般映画で、男性が作った「都合のいい女」像をひっくり返してきた女性監督が自ら作ら記す映画戦記。
10代の頃、邦画の中の女性像に覚えた違和感が闘いのきっかけ。1960年代、当時「女になれない職業」だった映画監督への道をこじ開けるためピンク映画の業界に飛び込んだ。そして「女の性を女の手に取り戻す」ことが映画人生の主題に。女を囲む理不尽を映画で突き破り、世界中の女と響き渡っていく。そこに至る軌跡、一コマも妥協しないプロの矜持は圧倒的。読めば心に火がつく。

令和4年12月4日(日)読売新聞13面(文化)

上述の(序章より)にある「私はこの第一作が評価されても」の“第一作”が『第七官界彷徨ー尾崎翠(おざきみどり)を探して』で、本書の第5章にくわしい。この章もまさに「読めば心に火がつく」だ。

でね、なにがどう「火がつくか」というと、彼女の行く道を盛大に妨害する“男社会”の男たちとの死闘。とにかく、彼らの妨害がひどいのよ。
で、序章にも
〈それは新たな困難との闘いでもあった。映画化権を巡って尾崎翠を私物化する文芸評論家との死闘、1億円にも及ぶ制作費、世界的な舞台女優である白石加代子さんのキャスティング〉
とあって、ピンク映画の監督に手に負えるものではなく、応援してくれる人たちも無謀だと。

いわく、女には無理だよ。

「なめんなよ!!」←というキャプションだとそれらしく見えますね。

2.シャネルのバックでいつか撲ちたい

だがしかし、見てろよオマエら!
まさに『食っていけるの? そう笑ってた人たちを シャネルのバッグでいつか撲ちたい』だ。

食っていけるの?そう笑ってた人たちをシャネルのバッグでいつか撲ちたい――会社員、パート、教師、保育士、精神科医……いま刮目すべき歌人36名による、心撃ち抜く労働短歌&エッセイ!
俵万智×吉澤嘉代子の対談「短歌が変える女たちの現実」も収録。

◆辞めようと思うよなんてそんなことラーメン二郎の前で言うなよ
◆業界の未来を語るおじいさんおじさんおじさんおじいさんおじ
◆軍手には引っかからないデザインを選んで買ったマリッジリング
◆食堂は嵐の前の静けさで、来た、来た、嵐「そば」「うどん」「うどん」
◆日銀を白銀と読み間違えてほのあかるいな今朝の紙面は 

『うたわない女はいない』

尾崎翠さんにつきましては、ウィキペディアにてhttps://ja.wikipedia.org/wiki/尾崎翠

それでですね、敵役となった“尾崎翠を私物化する文芸評論家”との死闘ですが、緒戦は、彼の解釈による「尾崎翠」が、彼女らのイメージとあわなかったこと。

それはなにかというと、「尾崎翠を世に出した」と自称する文芸評論家が尾崎翠の全集の解説に記した、これ。
〈(尾崎翠)が死の床で「このまま死ぬのなら、むごいものだねえ、と嘆きながら、大粒の涙をぽろぽろと流した」というエピソード〉

これって、まるで尾崎翠を「孤独で悲痛な人生のシンボル」として世の中に流布しようとしているようで、でもなんか違うんじゃないかと。
本書のP.84から引用しますと

だが、果たしてほんとうにそうであろうか? 確かに「忘れられた悲劇の女流作家」のイメージを強調するには、実人生の不幸をオーバーラップするほうが感情移入しやすいだろう。しかし、私にはどうしてもそうは思えなかった。「第七官界彷徨」をはじめとする作品群からは、自分の生きた人生を悔いながら死んでいくような尾崎翠は、全く見えてこなかったのだ。

『女になれない職業』

3.文芸評論家氏との死闘。そして。

たしかに尾崎翠さんは「第七官界彷徨」で一斉を風靡した後、忽然と日本の文學界から姿を消した“幻の作家”だとされているが。
だがしかし。
文芸評論家氏が流布するイメージとは真逆で〈湿っぽさのない、からりとした性格でユーモアに富んでおり、豪放闊達かつ磊落〉な女性だったらしい。

なので今回の映画化にあたり、彼女らは文芸評論家氏を無視する。
だって、ちがうんだもん。

アンタらが言いふらしている悲壮なイメージは〈男性評論家の抱きがちなロマンチックな幻想〉だったのではないか。
尾崎翠は、文芸評論家氏がいうところの「空しく老い続けた」のでもなく「生きる屍」などではなく、戦時色が強くなった戦中から大混乱の戦後をたくましく生き抜いた一人の女性だったのだ。

なぜ尾崎翠は沈黙していたのか。
たどりついた真相はこれだ。
本書P.84から引用します。

鳥取県立図書館の郷土資料コーナーでは、翠が1941年に長い沈黙を破って「日本海新聞」に寄稿したえエッセイを読むことが出来た。このエッセイで「今自分が何も書かないのは黄金の沈黙だと思っている」と書いていた。
「黄金の沈黙」。決して書けなくなったわけではない。書かないことを選択した、と翠は言っている。私はこの「黄金の沈黙」という言葉に出会って、背筋のピンと伸びた尾崎翠の矜持がひしひしと伝わってくる思いだった。

『女になれない職業』

彼女は自らの意思で断筆したのだ。
軍国主義に抗うため。
自分が書きたいもの以外は書かないために。
良妻賢母しか求められない時代にもかかわらず、自分らしく生きようとした。
それが彼女の孤高の選択だったのだ。

ところがですね、ここから文芸評論家氏の「え、そんなことまでやるの、おいおいおっさんちょっと待てよ、あのさー」という、まさに自分の権威を死守するための壮絶なの映画化妨害工作が始まるのであった。

不幸伝説でいいんですよ。
「功をなし、名を上げようとした作家が、途中で断筆したのだから、幸せだったはずがないでしょう」
「女が一生結婚できなかったのだから不幸に決まっている。まあ体格はよかったから、性欲はそうとう強かったでしょうがね」

文芸評論家氏の言葉に呆れ、怒りに震えた。
受けて立つ。
まさに死闘。

序章に戻りますが
〈決して男社会に媚びない。そう心に決めて生きてきた。私が惹かれる女たちもまた、孤高の女たちだ〉
とあります。

女を囲む理不尽を映画で突き破り、世界中の女と響き渡っていく。

女の答えはRE/MAXにある!!

今回は以上です。
っていうか『女になれない職業』自体を映画化するというのはどうでしょう。
いまの時代にふさわしい傑作になりますよねきっと!!

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宅建ダイナマイト合格スクールおーさわ校長note
いいえあなた。ほしいものはないのよ。でも涙拭く木綿のハンカチーフという名のチップください。あざーっす!!