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【#02】ヒ・ミ・ツの民法★復刻コラム

こちらの続きです。


4.ニッポンが「民法」制定を急いだ理由−その3

そんでもって西洋列強は「裁判は英語でやる(判事は外国人)」「ニッポンが作った法律は我々が審査する」ということまで要求してきたらしい。「あのね・・・」とアタマを抱えるニッポン。

しかたがない。
もうこなったら、ウチらもはやく西洋風な法律っていうやつを、つまり、憲法やら民法、刑法っていうのを作るしかない。
そうだ、そうだ、なんだかわかんないけどそういうのを作っちゃえ、そしたらヤツらと対等だ。

そんなノリで(・・・たぶん、ここまで軽くはないと思いますけど)、江藤新平さんという人を中心に、さっそくフランス民法の翻訳に入ったのでありました。
でもとにかく急げ。
彼は翻訳スタッフにこういったそうです。

「誤訳もまた妨げず、唯、速訳せよ」
「仏蘭西(フランス)民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」

しかしまぁ、そんなアンバイだからか、遅々として進まず、次なる手として、こんどは政府は外国から助っ人(法律学者)を呼び寄せたのであった。
彼の名は「ボアソナード」。フランス人です。
時は1873(明治6)年。

ついに来た。我らがボアソナードさん。
ニッポンの救世主!!
当時、西洋的な法的素養がまったくなかったニッポン。
なにとぞヨ・ロ・シ・クお願いいたします。

おーさわ注:
東京・市ヶ谷の法政大学のャンパスに、ボアソナード・タワーっていうのがあるよ。
地上27階・地下4階建て。

おーさわ注

5.ボワソナードさんが作ってくれた民法草案

彼は作った。
ニッポンの民法草案。
どれくらいの期間で作ったかというと、あしかけ10年。
うげっ、じゅーねんっ!!
そっかー、そんなに時間がかかったのか。
ボアソナードさんは、一生懸命、がんばってくれた。 

ところがね、10年かかりで作ったボアソナードさんの民法草案。
これがボツになったのだ。
げげー、まじっすか(涙)
ということで、不平等条約の改正は、ますます遠ざかるばかりなり。

フランスからやってきたボワソナードさんは、フランス流儀の民法を手本にしてニッポンの民法を考えたわけでして、となると彼の地は「個人主義」。
なので彼の作った民法草案も個人主義の味付けが濃くなるわけです。

で、1890年に公布。
公布の段階だとまだ民法は効力なし。
施行までいかなきゃね。
で、よしもうすぐ施行だという段階になったときに「ちょっと待ったぁ〜」と猛反対が起こる。
これがかの有名な「民法典論争(←ネットで検索してみてね)」でございます。
よもやの大騒動が勃発。

そして「民法出デテ忠孝亡ブ」というセンセーショナルな論文が出される。
「そんな外国人が作った個人主義ベースの民法なんて施行してみろ、ニッポンの古き良き伝統である忠や考という文化(たぶん家制度とかもからんでたんでしょうね)がメチャクチャになるぞ」と。
そんな内容だったらしい。

かくして学者陣も施行賛成派・反対派の両陣営に真っ二つに別れ、激突に次ぐ激突。
当時、フランス法の教育を行っている学校がある一方、英米系の法律を教育している学校もあって、英米法の教育を受けた人たちがフランス系民法を嫌ったという背景もあった模様。

おーさわ注:
民法の騒動に限らず、まぁなんでもそうなんだろうけど、『新しい概念・新しい考え方・新しい方法』っていうのが出されると賛否両論となるんだけどね。

おーさわ注

6.若手3人衆、ついに登場。ガツンとキメたぜ!!

どうにもしょうがない。
明治政府としても民法を施行するどころの話ではなくなっちゃったわけでして、1892(明治25)年11月に「民法の施行は1896(明治29年)末までに延期」とされたのでありました。
うぅー、なかなか民法が生まれません(涙)

そうこうしているうちに、ボワソナードさん、22年間のニッポンでの生活に別れを告げ1895年に帰国。
すでに御年70歳になられていたのでありました。
学者人生バリバリ脂の乗り切った時期に、ニッポンのために尽力してくださいましたボワソナードさん、ありがとうございました。

で、さて、どーするニッポンの民法!!
夜明けは近いのか、それともまだまだ遠いのか。

1896(明治29)年末までに民法を施行するという「デッドライン」を決めたのはいいけど、さてどうする。
いま手元にあるのはボワソナードさんの民法草案。
とりあえず、これを手直しするしかない。

施行延期を決めた1892年の翌年、つまり1893(明治26)年から、民法典の修正&作り変えの総力戦が始まった。
そのプロジェクトチームのトップは、みなさんご存知の、当時の首相の伊藤博文さん。そうなのだ、国をあげての総力戦。

残された期間は3年ちょっと。
とにかくもう、ここでキメるしかない。
このタイミングで登場したのが、若き起草委員3名。

穂積陳重氏(37)
富井政章氏(34)
梅謙次郎氏(32)

ついにきましたー!!
バリバリの若手3人衆。

ニッポンの夜明け。
待ってました。
きらめきの30代。

おーさわ注:
とにもかくにも、30代が元気な会社・組織・社会って、勢いがあっておもしろいよね。彼ら彼女らは、自分らの下の20歳代の連中とも、はたまた40代の年上世代とも、そんでもって“うるさ型の50歳代のオヤジ”たちとも、ついでにオマケで60代とも話を合わせることができるので、いうなれば、頼りになるジャンクション世代だ。

おーさわ注

続きは#03にて。

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宅建ダイナマイト合格スクールおーさわ校長note
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